2010年12月20日月曜日
2010年12月15日水曜日
2010年12月14日火曜日
2010年12月13日月曜日
2010年11月29日月曜日
2010年11月28日日曜日
Vertical or Horizontal
これまで、“書きだす”ということについて私見を述べてきた。筆者も“書きだし”を日々実践しているが、その際、最初のメモ、ノート等へのアナログ的“書きだし”には、縦書きを用いている。英数字やそれらを基本とするパソコン使用が多い環境にいながらも、縦書きにより、右から左へと筆を走らせている。現在、先のパソコンをはじめ、ほとんどの新聞雑誌等のテキストメディア情報や書籍類のほとんどは横書きである。具体的な数値は調べていないが、個人の体感では、縦書きに日常触れる機会は1割にも満たないのではないであろうか。また、<ヒト>の視野角において、「情報受容能力に優れる有効視野は水平に30度、垂直に20度程度に過ぎず、注視点が迅速に安定して見える安定注視野は水平に60~90度、垂直に45度~70度程度である」という大阪大学の研究報告がある。さらに、同大大学院の交通安全性に関する有効視野の研究では、「広い有効視野が確保されていることは、情報の検出効率と注視移動効率という2点から情報獲得の際に重要となるのである」と報告している。
こうした点から、<ヒト>は“書きだす”と同時に、その“書きだされたもの”を瞬時に情報として再獲得し、その繰り返しによって、不可視的な思考を“それ”として認識しているという一面があるとするならば、安定注視野にしろ、有効視野にしろ、より広い視野角の方が効率的であり、疲労軽減の点からも望ましいと考えるのが一般的であると言えよう。その意味で、横書きが氾濫する現状からすれば、それにならって横書きによる“書きだし”が自然ともとれる。それでもなお、筆者はあえて縦書きの“書きだし”を実践している。
まず、画数が多く、上下の動きが多い日本語は、縦書きが書き易いと個人的に感じている。次に、職業柄、横書きのアルファベットを書く時間も相当量であるため、縦書きにすることで、その違いが明確になり、より強い(視覚的な)刺激となって(文字情報を)獲得できていると感じている。そして、単純で、最初の理由とも関連するが、縦書きの右→左方向への書きだしはleftyである筆者には都合が良いのである。横書きの左→右の押し出すような書きだしだと、文字を手で汚してしまいがちである。それを避けるために、手を丸めるようにすると、文字自体がいびつなものになってしまう。きわめて個人的で些細な理由をならべたが、特に2番目は大切にしたいと考えている。汎用性を考慮するのであれば、定形のパソコン入力への移行がスムーズな横書きの書きだしが良いであろう。しかし、筆者にとって、いずれ汎用性のために定形化が求められるようなことがあったとしても、最初の、それこそ取り留めのない思考(の一端)を“書きだす”ということには、自然で、それを書きだした時の時間、環境、感情などの“雰囲気”が付随される不定形な手書きの縦書き文字が望ましい。
こうした点から、<ヒト>は“書きだす”と同時に、その“書きだされたもの”を瞬時に情報として再獲得し、その繰り返しによって、不可視的な思考を“それ”として認識しているという一面があるとするならば、安定注視野にしろ、有効視野にしろ、より広い視野角の方が効率的であり、疲労軽減の点からも望ましいと考えるのが一般的であると言えよう。その意味で、横書きが氾濫する現状からすれば、それにならって横書きによる“書きだし”が自然ともとれる。それでもなお、筆者はあえて縦書きの“書きだし”を実践している。
まず、画数が多く、上下の動きが多い日本語は、縦書きが書き易いと個人的に感じている。次に、職業柄、横書きのアルファベットを書く時間も相当量であるため、縦書きにすることで、その違いが明確になり、より強い(視覚的な)刺激となって(文字情報を)獲得できていると感じている。そして、単純で、最初の理由とも関連するが、縦書きの右→左方向への書きだしはleftyである筆者には都合が良いのである。横書きの左→右の押し出すような書きだしだと、文字を手で汚してしまいがちである。それを避けるために、手を丸めるようにすると、文字自体がいびつなものになってしまう。きわめて個人的で些細な理由をならべたが、特に2番目は大切にしたいと考えている。汎用性を考慮するのであれば、定形のパソコン入力への移行がスムーズな横書きの書きだしが良いであろう。しかし、筆者にとって、いずれ汎用性のために定形化が求められるようなことがあったとしても、最初の、それこそ取り留めのない思考(の一端)を“書きだす”ということには、自然で、それを書きだした時の時間、環境、感情などの“雰囲気”が付随される不定形な手書きの縦書き文字が望ましい。
Write Things Out (3)
思考の可視化として“書きだす”ということは、(大げさに聞こえるかもしれないが)生命維持のために必要な行為[活動]であると言える。それは、まさに<ヒト>の「代謝」のようである。「代謝」とは、国語辞書的には、「1.古いものと新しいものが変わること;2.生体内で物質が次々と化学的に変化し、入れ替わること。また、それに伴ってエネルギーが出入りすること」ということになる。つまり、日々の営みの中で、新しい情報を得て、それらが脳内で消化、化学変化を経て、ある情報はエネルギーとなり、言葉や行動となって、<ヒト>の社会活動の構成要素となる。また不必要なものとして消化されない情報もある。そうした不必要な情報は、人体の分泌や排泄のように、脳外に出されるべきである。さもなければ、そうした不必要な情報は堆積し、日々絶え間なく得られる情報の整理、管理といった脳の代謝の大きな障害となってしまうものと考えられる。そして、そうした障害が脳のストレスとなる危険性をはらんでいるとするならば、上述した「“書きだす”ということは生命維持のために必要な行為[活動]である」ということも、見当はずれなことではないであろう。
一般に、健康維持のために新陳代謝を高める必要があると言われる。同様に、健全な思考のためにも、脳の代謝としての“書きだす”という行為を積極的に実践していこうと思う。
一般に、健康維持のために新陳代謝を高める必要があると言われる。同様に、健全な思考のためにも、脳の代謝としての“書きだす”という行為を積極的に実践していこうと思う。
2010年11月27日土曜日
Write Things Out (2)
前回思考の整理、管理のために“書きだす”ことの必要性について触れた。
近年普及したITやインターネットといったデジタル化の波にのまれそうになりながらも、 <ヒト>がいわゆるアナログである限り、頭の中の活動はアナログである。たとえ、 インプットがデジタル情報であったとしても、生来の“コンバータ”でアナログ化 しているのであろう。当然、アウトプットである“書きだし”も、アナログ式が自然であるし、楽なように思える。 筆記具を用いたノートなどへの“書きだし”はアナログ式書きだしの1つと言える。 パソコンなどを用いた定形文字による“書きだし”作業より、手書きの不定形な書きだし の方がより思考内容に近いアナログ感を味わえる。データ管理という視点からすれば、定形文字によるデジタル化にはかなわないであろう。実際、情報のデジタル化により、 キーワード検索やリンク付けなどが可能になる。アナログの不定形文字ではそうした ことは難しい。もしもアナログの書きだしメモを簡単にデジタル化するのであれば、 スキャナによる画像化が手っ取り早いであろう。(OCRによる文字読み取りは誤認識 がある)
筆者は手書きによる思考の“書きだし”を実践している。そして、さらに必要と思われる情報はパソコン入力で整理することにしている。このひと手間を加えている時間に、再考、再々考ができ、その時に加筆修正を行うことで、より精査された(とはいっても取り留めのない内容が大半だが・・)思考の可視化ができると考えている。
上述したように、データ管理の面からすれば、定形のデジタル文字は汎用性が高い。しかし、不定形の手書き[アナログ]文字には、個性があり、書き留めた時間や環境といったその時にしかない“雰囲気”が筆跡として残される。筆者は、この不定形の手書き文字に付随される“雰囲気” を大切にしたいと思っているし、次の思考への“リンク付け”であると考える。
近年普及したITやインターネットといったデジタル化の波にのまれそうになりながらも、 <ヒト>がいわゆるアナログである限り、頭の中の活動はアナログである。たとえ、 インプットがデジタル情報であったとしても、生来の“コンバータ”でアナログ化 しているのであろう。当然、アウトプットである“書きだし”も、アナログ式が自然であるし、楽なように思える。 筆記具を用いたノートなどへの“書きだし”はアナログ式書きだしの1つと言える。 パソコンなどを用いた定形文字による“書きだし”作業より、手書きの不定形な書きだし の方がより思考内容に近いアナログ感を味わえる。データ管理という視点からすれば、定形文字によるデジタル化にはかなわないであろう。実際、情報のデジタル化により、 キーワード検索やリンク付けなどが可能になる。アナログの不定形文字ではそうした ことは難しい。もしもアナログの書きだしメモを簡単にデジタル化するのであれば、 スキャナによる画像化が手っ取り早いであろう。(OCRによる文字読み取りは誤認識 がある)
筆者は手書きによる思考の“書きだし”を実践している。そして、さらに必要と思われる情報はパソコン入力で整理することにしている。このひと手間を加えている時間に、再考、再々考ができ、その時に加筆修正を行うことで、より精査された(とはいっても取り留めのない内容が大半だが・・)思考の可視化ができると考えている。
上述したように、データ管理の面からすれば、定形のデジタル文字は汎用性が高い。しかし、不定形の手書き[アナログ]文字には、個性があり、書き留めた時間や環境といったその時にしかない“雰囲気”が筆跡として残される。筆者は、この不定形の手書き文字に付随される“雰囲気” を大切にしたいと思っているし、次の思考への“リンク付け”であると考える。
Write Things Out (1)
“<ヒト>は思考する動物である”としばしば言われる。
また、<ヒト>は言葉を修得し、言葉で考える、と言われる。
そして、言葉の整理や管理が頭の中でうまくいかない場合、
<ヒト>は思い悩むのである。さらに、<ヒト>は日々の生活
の中で、言葉のみならず、多種多様な(道路標識などの)記号等の情報を大量
に得ることになる。それゆえ、頭の中で言葉を含む情報の
整理、管理がうまくいかないと、<ヒト>の思い悩みも深く、
大きなものになってしまうのである。
だからこそ、思考の整理、管理を円滑なものとするために、
決して見えることのできない頭の中の思考を可視化することが
必要なのである。そのためには、頭の中に思い浮かんだことを
“書きだす”ということが大切なのである。
また、<ヒト>は言葉を修得し、言葉で考える、と言われる。
そして、言葉の整理や管理が頭の中でうまくいかない場合、
<ヒト>は思い悩むのである。さらに、<ヒト>は日々の生活
の中で、言葉のみならず、多種多様な(道路標識などの)記号等の情報を大量
に得ることになる。それゆえ、頭の中で言葉を含む情報の
整理、管理がうまくいかないと、<ヒト>の思い悩みも深く、
大きなものになってしまうのである。
だからこそ、思考の整理、管理を円滑なものとするために、
決して見えることのできない頭の中の思考を可視化することが
必要なのである。そのためには、頭の中に思い浮かんだことを
“書きだす”ということが大切なのである。
・・・屋
先日日本語の「・・・屋」について、職業差別の観点から不適切ではないかとの指摘を受けた。
実際、NHKをはじめとする放送業界では禁止用語の1つに挙げられているそうだ。
こうした職業差別表現の問題は、これまでもあった。例えば、看護婦→看護師、スチュワーデス
→キャビン[フライト]アテンダントまたは客室乗務員、ウェイトレス→スタッフなど、特に性差に関わるものが目立つ。アメリカでは、ポリティカリーコレクト(ネス)[politically correct(ness)]として、政治的公正の見地から、メディア上の表現などを是正する動きがある。
今回の「・・・屋」であるが、個人的には文脈[コンテクスト]に依存するのではないかという印象をもっている。例えば、声を荒げて、「・・・屋のくせに」、「・・・屋のぶんざいで」、「・・・屋が何を言っているんだ」等であれば、その文脈から侮蔑の念が容易に推察される。一方、「この・・・屋さんのは、おいしいね」、「あそこの・・・屋さんに頼めば大丈夫だよ」、「・・・屋さんはいつも新鮮ね」等となれば、そこに悪意は
見当たらない。 むしろ、“政治的に妥当な表現”より親しみさえ覚える。
職業差別の禁止という点から、禁止用語(になりうる表現)を一律使用制限してしまうのは、日本語表現の豊かさを枯渇させてしまわないだろうか。今後の検討課題としよう。
実際、NHKをはじめとする放送業界では禁止用語の1つに挙げられているそうだ。
こうした職業差別表現の問題は、これまでもあった。例えば、看護婦→看護師、スチュワーデス
→キャビン[フライト]アテンダントまたは客室乗務員、ウェイトレス→スタッフなど、特に性差に関わるものが目立つ。アメリカでは、ポリティカリーコレクト(ネス)[politically correct(ness)]として、政治的公正の見地から、メディア上の表現などを是正する動きがある。
今回の「・・・屋」であるが、個人的には文脈[コンテクスト]に依存するのではないかという印象をもっている。例えば、声を荒げて、「・・・屋のくせに」、「・・・屋のぶんざいで」、「・・・屋が何を言っているんだ」等であれば、その文脈から侮蔑の念が容易に推察される。一方、「この・・・屋さんのは、おいしいね」、「あそこの・・・屋さんに頼めば大丈夫だよ」、「・・・屋さんはいつも新鮮ね」等となれば、そこに悪意は
見当たらない。 むしろ、“政治的に妥当な表現”より親しみさえ覚える。
職業差別の禁止という点から、禁止用語(になりうる表現)を一律使用制限してしまうのは、日本語表現の豊かさを枯渇させてしまわないだろうか。今後の検討課題としよう。
2010年11月25日木曜日
Can I ask you to do ~ ?
最近、いや数年前からか、「・・・してもらってもいいですか」という表現をあちらこちらで耳にするようになった。おそらく、出張先でも耳にするので、全国的に“普及”しているのであろう。
これは、「・・・していただけますか」や「・・・してください」等の依頼表現の“新”代替表現と考えられるが、人生半ばを過ぎたと言われる私の語感には馴染まない。
言葉はそれが用いられる地域の思想、信念、価値観、総じて文化と連動しながら、絶えず変化・変容するものだ。もちろん、淘汰されずに現代へと継承され続ける表現もある。それでも、生物の知や体の進化と同様に、変化変容することは不思議ではない。
近い将来、「・・・してもらってもいいですか」と尋ねられ、素直に応答できる日が来るかもしれない。
その時は、私も生物として環境に適応し、“進化”したと実感できるのかもしれない。
なお、「・・・してください」や「・・・していただけますか」を英語で表現すると、一般的には
Can you do ~ ?
Could [Would] you do ~ ?
あたりでよいであろう。
「・・・してもらってもいいですか」のニュアンスをだすのであれば、
Can I ask you to do ~ ?
にして、「・・して[する]の動作の主体」に「(して)もらってもいいかどうか」を自分が“あえて”尋ねるということでその雰囲気がでるかと思われる。もっとも、この英語表現は正当なものであり、違和感を覚える
ネイティブスピーカーは少ないであろう。
また、上記と関連して、「・・・してもらっても大丈夫ですか」という表現も耳にするが、これは
Is it OK to ask you to do ~ ?
などになるであろう。
これは、「・・・していただけますか」や「・・・してください」等の依頼表現の“新”代替表現と考えられるが、人生半ばを過ぎたと言われる私の語感には馴染まない。
言葉はそれが用いられる地域の思想、信念、価値観、総じて文化と連動しながら、絶えず変化・変容するものだ。もちろん、淘汰されずに現代へと継承され続ける表現もある。それでも、生物の知や体の進化と同様に、変化変容することは不思議ではない。
近い将来、「・・・してもらってもいいですか」と尋ねられ、素直に応答できる日が来るかもしれない。
その時は、私も生物として環境に適応し、“進化”したと実感できるのかもしれない。
なお、「・・・してください」や「・・・していただけますか」を英語で表現すると、一般的には
Can you do ~ ?
Could [Would] you do ~ ?
あたりでよいであろう。
「・・・してもらってもいいですか」のニュアンスをだすのであれば、
Can I ask you to do ~ ?
にして、「・・して[する]の動作の主体」に「(して)もらってもいいかどうか」を自分が“あえて”尋ねるということでその雰囲気がでるかと思われる。もっとも、この英語表現は正当なものであり、違和感を覚える
ネイティブスピーカーは少ないであろう。
また、上記と関連して、「・・・してもらっても大丈夫ですか」という表現も耳にするが、これは
Is it OK to ask you to do ~ ?
などになるであろう。
2010年11月16日火曜日
lefty
今朝のテレビで、たまたま神社へのお参りの作法が流れていた。
お清めのところでは、柄杓を右手で持ち、左手から水で清めていくという、
ごく一般的な解説であった。
その際、神社[神道]では、左を尊重するという思想から、そのような
作法になったという補足があった。そして、「奥の手」とは左を指すという
例も挙げられていた。
もちろんこうした事は諸説あることで、必ずしもそうであるとは言い切れない
ものの、少なくともそのような考えがあった、もしくは(現代にも)継承されて
いるということの一端は見えるであろう。
かくいう筆者も基本左利きである。社会的要請[制約]から、右手で扱う
動作も多々あるが、安心できる動作には左手が必要となる。特に
字をきれい、丁寧に書くような場合は左手にペンを持つ。
欧米では、日本よりも左利きに寛容のようだが、そうした事情もあってか、
左利き用のグッズが多く揃っているような気がする。万年筆もその1つだ。
日本でもドイツ・ペリカン社製の子供用万年筆ペリカーノジュニアのLefty(左利き)は有名だ。
お清めのところでは、柄杓を右手で持ち、左手から水で清めていくという、
ごく一般的な解説であった。
その際、神社[神道]では、左を尊重するという思想から、そのような
作法になったという補足があった。そして、「奥の手」とは左を指すという
例も挙げられていた。
もちろんこうした事は諸説あることで、必ずしもそうであるとは言い切れない
ものの、少なくともそのような考えがあった、もしくは(現代にも)継承されて
いるということの一端は見えるであろう。
かくいう筆者も基本左利きである。社会的要請[制約]から、右手で扱う
動作も多々あるが、安心できる動作には左手が必要となる。特に
字をきれい、丁寧に書くような場合は左手にペンを持つ。
欧米では、日本よりも左利きに寛容のようだが、そうした事情もあってか、
左利き用のグッズが多く揃っているような気がする。万年筆もその1つだ。
日本でもドイツ・ペリカン社製の子供用万年筆ペリカーノジュニアのLefty(左利き)は有名だ。
2010年11月13日土曜日
Open Campus/Class
今日、本務校では、「授業公開」が行われている。いわゆる「オープンキャンパス」とは少し違い、実際に現役学生の受講状況を見学できる。ただ1つに気になったことは、各教室とも教室いっぱいに広がって着席しているので、通例入るであろう、教室後部に見学スペースがないことだ。ましてや、扉が閉まった状態であれば、なおのこと入りにくいであろう。そのあたり、今後改善されるべき点であろう。
どこの大学、短大、高専も、学生獲得にさまざまな工夫を凝らしている。この授業公開もその1つであるが、他では「オープンキャンパス」として、施設見学が中心となる。そして、学校説明会や一部の教員による(一般向け)講義などが予定されることが多い。
興味深いことに、英語でOpen Campusというと、日本語のような「授業公開」や「キャンパス紹介」のような含みは少なく、むしろ「開かれた授業(大学)」のように、人種、性差等に関係なく、何人にも“開かれた”教育機関であることを指す場合に用いられることが多い。また、Open Classとなると、履修登録時に、「開講(されている)科目」として使われる場合が多い。
筆者が通っていたアメリカの大学では、大学専任のコーディネーターが適宜希望者を授業に案内していたことを記憶している。おそらく、本校のような「授業公開」のような年間スケジュールに組み込まれる業務はなかったように思う。これも日米教育文化の差異かもしれない。。。
どこの大学、短大、高専も、学生獲得にさまざまな工夫を凝らしている。この授業公開もその1つであるが、他では「オープンキャンパス」として、施設見学が中心となる。そして、学校説明会や一部の教員による(一般向け)講義などが予定されることが多い。
興味深いことに、英語でOpen Campusというと、日本語のような「授業公開」や「キャンパス紹介」のような含みは少なく、むしろ「開かれた授業(大学)」のように、人種、性差等に関係なく、何人にも“開かれた”教育機関であることを指す場合に用いられることが多い。また、Open Classとなると、履修登録時に、「開講(されている)科目」として使われる場合が多い。
筆者が通っていたアメリカの大学では、大学専任のコーディネーターが適宜希望者を授業に案内していたことを記憶している。おそらく、本校のような「授業公開」のような年間スケジュールに組み込まれる業務はなかったように思う。これも日米教育文化の差異かもしれない。。。
2010年2月22日月曜日
Royal Chester
九州を中心としてRoyal Chesterという婚礼を主な事業とする会場施設がある。(北関東にも一部あるようだ)
その名の通り、館内はどれもイギリス王室を意識した造りこみになっている。その施設を単体として見た場合、なかなかの造形美があり、美しいのだが、町並みとの整合性は気になるところだ。建築デザインにはそれほど詳しくはないが、どこか肉食系的なボリューム感がある。
ところで、デザイン以上に気になったのが、その名称である。
Royal Chester(ロイヤルチェスター)
確かにカタカナ語としての響きはよい。なんとなく、一般の方でも立派な名称であることは認識できるであろう。
Royalはしばしばメディアでもカタカナ表記されるように、イギリスなどの王室を意味する。語源もおそらく古フランス語のkingに相当する語であろう。
chesterは、サッカーで有名なManchester United(マンチェスターユナイテッド)や、Winchesterなどのように後置要素としても見かける。
chesterは、ローマ世界のlegion(軍隊;軍団)と関連し、"city of legion"(軍隊[軍団]の町→城砦[塞])ということらしい。castle(城)とも語源的なつながりがあるようだ。
そう考えると、Royal Chesterは「王の城砦[塞]」ということになろうか。
もっとも、当のロイヤルチェスターは、おそらく、chesterを地名から取り、「王の(町)チェスター」あたりのニュアンスを感じとって、そう名付けたのであろう。
ちなみに、Royalはpalace(王宮)、wedding(王室の結婚)、family(王室[家])、Navy(イギリス海軍)等、地名と結びつくことはそれほど多くはなく、地名との結びつきは磁器で有名なRoyal Copenhagenのように、ブランド名として用いられることが多いように思う。
その名の通り、館内はどれもイギリス王室を意識した造りこみになっている。その施設を単体として見た場合、なかなかの造形美があり、美しいのだが、町並みとの整合性は気になるところだ。建築デザインにはそれほど詳しくはないが、どこか肉食系的なボリューム感がある。
ところで、デザイン以上に気になったのが、その名称である。
Royal Chester(ロイヤルチェスター)
確かにカタカナ語としての響きはよい。なんとなく、一般の方でも立派な名称であることは認識できるであろう。
Royalはしばしばメディアでもカタカナ表記されるように、イギリスなどの王室を意味する。語源もおそらく古フランス語のkingに相当する語であろう。
chesterは、サッカーで有名なManchester United(マンチェスターユナイテッド)や、Winchesterなどのように後置要素としても見かける。
chesterは、ローマ世界のlegion(軍隊;軍団)と関連し、"city of legion"(軍隊[軍団]の町→城砦[塞])ということらしい。castle(城)とも語源的なつながりがあるようだ。
そう考えると、Royal Chesterは「王の城砦[塞]」ということになろうか。
もっとも、当のロイヤルチェスターは、おそらく、chesterを地名から取り、「王の(町)チェスター」あたりのニュアンスを感じとって、そう名付けたのであろう。
ちなみに、Royalはpalace(王宮)、wedding(王室の結婚)、family(王室[家])、Navy(イギリス海軍)等、地名と結びつくことはそれほど多くはなく、地名との結びつきは磁器で有名なRoyal Copenhagenのように、ブランド名として用いられることが多いように思う。
2010年2月9日火曜日
dish
先日日頃お世話になっている編集者の方とdishの語源についてメールでやりとりする機会があった。
dishの語源discusを「円盤」とする辞書(大著の1つにあげられる大辞典)を引用しておられてたのだが、「円盤」という表現が気になった。確かに複数の辞書で、dishはdiscusに由来し、discusとはラテン語やギリシャ語のdisk[c]、つまり、「円盤」を指す。しかしながら、もしdisk[c]が「円盤」であるならば、dishが生活用品として使われ始めたころには「円盤」が日常に存在していたはずである。当時実在したギリシアラテンの世界における「円盤」とは何であったのであろうか、というのが私の疑問であった。
地中海の太陽を受けながら発達したということを考えると、太陽、それをうつしだす鏡、争いの用具であった楯などが「円盤」という認識をもつ可能性があるかと思われる。しかし、当時のdishが仮に円形であったとするならば、表面的な形状を表す「円」でよいわけであり、厚みのある立体的な「円盤」とする必要性はないように思う。
dishの起源を少し考えてみると、食べ物をそこに置いたり、食べ物を運んだりする必要性からdishが生まれてきたとするならば、必ずしも円形でも、円盤でもある必要はないであろう。少し厚みのある「平板」や「板の一片」、それこそ現代でも一部の地域で用いられているようなしっかりとした大きな葉でもよいのである。形状は四角でも三角でもかまわないであろう。実際、discusにはplatterが含意される。つまり、plateのことだ。
ちなみにドイツ語で皿にはplatte、schale、tellerなどの表現がある。schaleは英語のbowlに相当するがほかの2語はplateだ。
このように見ると、確かに複数の辞書にdishの語源discusを「円盤」とする記載はあるが、「平板」あたりがよいのではないかと思う。おそらく現代のdisk[c]の存在感が強く、しかも現代の多くの皿の形状と合致するので、「円盤」と結びつけやすかったということが推測される。
それにしても、“プロ”の編集者の方との言語と文化に関するやりとりは知的好奇心がかきたてられる。間違いなく、その編集者の方の言語と文化に対する情熱がそうした要因の一端になっているのであろう。そうした方にめぐりあえたことはまことに幸せなことだ。
dishの語源discusを「円盤」とする辞書(大著の1つにあげられる大辞典)を引用しておられてたのだが、「円盤」という表現が気になった。確かに複数の辞書で、dishはdiscusに由来し、discusとはラテン語やギリシャ語のdisk[c]、つまり、「円盤」を指す。しかしながら、もしdisk[c]が「円盤」であるならば、dishが生活用品として使われ始めたころには「円盤」が日常に存在していたはずである。当時実在したギリシアラテンの世界における「円盤」とは何であったのであろうか、というのが私の疑問であった。
地中海の太陽を受けながら発達したということを考えると、太陽、それをうつしだす鏡、争いの用具であった楯などが「円盤」という認識をもつ可能性があるかと思われる。しかし、当時のdishが仮に円形であったとするならば、表面的な形状を表す「円」でよいわけであり、厚みのある立体的な「円盤」とする必要性はないように思う。
dishの起源を少し考えてみると、食べ物をそこに置いたり、食べ物を運んだりする必要性からdishが生まれてきたとするならば、必ずしも円形でも、円盤でもある必要はないであろう。少し厚みのある「平板」や「板の一片」、それこそ現代でも一部の地域で用いられているようなしっかりとした大きな葉でもよいのである。形状は四角でも三角でもかまわないであろう。実際、discusにはplatterが含意される。つまり、plateのことだ。
ちなみにドイツ語で皿にはplatte、schale、tellerなどの表現がある。schaleは英語のbowlに相当するがほかの2語はplateだ。
このように見ると、確かに複数の辞書にdishの語源discusを「円盤」とする記載はあるが、「平板」あたりがよいのではないかと思う。おそらく現代のdisk[c]の存在感が強く、しかも現代の多くの皿の形状と合致するので、「円盤」と結びつけやすかったということが推測される。
それにしても、“プロ”の編集者の方との言語と文化に関するやりとりは知的好奇心がかきたてられる。間違いなく、その編集者の方の言語と文化に対する情熱がそうした要因の一端になっているのであろう。そうした方にめぐりあえたことはまことに幸せなことだ。
2010年2月3日水曜日
寿
日本では、郵便で相手方に返信を求める場合、自分の名前の下方に「行」と書く習慣がある。そして、相手方はその「行」を斜線などで消して、「様」を書いて出すのが通例だ。
お祝い事の場合、一般的な斜線ではなく、「寿」で消す[上から書く]ことがある。また、返信はがきの裏面に出欠の確認がある時は、「ご出席」の「ご」も「寿」で消すことがある。
もちろん、斜線でもかまわないであろう。いわゆる文字的なコミュニケーション上、全く問題はない。ただ、より丁寧、より祝福の気持ちを表すという意味では、「寿」を用いられていると、とても心美しい感じを受ける。そうした、単なる文字的な、そして言葉のやり取りだけではないのが、日本語文化の本質の1つなのかもしれない。言葉を大切にし、言葉を介して日々の平穏で、幸福な生活を願うという、日本語が世界に誇れる言語文化の一端であると思う。
ところで、「寿」とは、辞書的には、「言葉で祝うこと」、「長命」、「祝い事」などの意味がある。英語では、訳しにくいものの1つと言えるが、辞書的にみると、"felicitation"(お祝いの言葉を述べること)、"congratulation(s)"(祝いの言葉)、"happiness"(幸福)あたりであろうか。こうした表現は、状況に応じて使い分ける必要がある。なお、"congratulation(s)"は「努力して成し遂げたことに対する言葉」なので、結婚の場合、もともとは男性に対してかける言葉であったという。現在は男性女性ともに用いているようだ。(アンカーコズミカ英和辞典"congratulation"の項参照) これは、かつては結婚が男性側による努力の賜物であったということの表れであろう。日本の社会では、恋愛や結婚に積極的でない「草食系男子」という若者が“増殖”しているという。言葉の本質を知ると、彼らの結婚に"congratulations"と声をかけていいものかどうか考えてしまう。
現在メディアが盛んに用いている「婚活」の様子、とりわけ、「肉食系女子」の様子を見ていると、結婚する[までこぎつける]のは、それはまさに"Congratulations"であろう。この意味において、現代社会では、「寿」="Congratulations"と言えるのではなかろうか。。。
お祝い事の場合、一般的な斜線ではなく、「寿」で消す[上から書く]ことがある。また、返信はがきの裏面に出欠の確認がある時は、「ご出席」の「ご」も「寿」で消すことがある。
もちろん、斜線でもかまわないであろう。いわゆる文字的なコミュニケーション上、全く問題はない。ただ、より丁寧、より祝福の気持ちを表すという意味では、「寿」を用いられていると、とても心美しい感じを受ける。そうした、単なる文字的な、そして言葉のやり取りだけではないのが、日本語文化の本質の1つなのかもしれない。言葉を大切にし、言葉を介して日々の平穏で、幸福な生活を願うという、日本語が世界に誇れる言語文化の一端であると思う。
ところで、「寿」とは、辞書的には、「言葉で祝うこと」、「長命」、「祝い事」などの意味がある。英語では、訳しにくいものの1つと言えるが、辞書的にみると、"felicitation"(お祝いの言葉を述べること)、"congratulation(s)"(祝いの言葉)、"happiness"(幸福)あたりであろうか。こうした表現は、状況に応じて使い分ける必要がある。なお、"congratulation(s)"は「努力して成し遂げたことに対する言葉」なので、結婚の場合、もともとは男性に対してかける言葉であったという。現在は男性女性ともに用いているようだ。(アンカーコズミカ英和辞典"congratulation"の項参照) これは、かつては結婚が男性側による努力の賜物であったということの表れであろう。日本の社会では、恋愛や結婚に積極的でない「草食系男子」という若者が“増殖”しているという。言葉の本質を知ると、彼らの結婚に"congratulations"と声をかけていいものかどうか考えてしまう。
現在メディアが盛んに用いている「婚活」の様子、とりわけ、「肉食系女子」の様子を見ていると、結婚する[までこぎつける]のは、それはまさに"Congratulations"であろう。この意味において、現代社会では、「寿」="Congratulations"と言えるのではなかろうか。。。
2010年2月2日火曜日
インクジェットプリンター
いよいよ年度末がやってきた。
毎年のことではあるが、このころになると、予算消化で細かい作業が増える。
今年度分の予算がまだ残っているので、劣化してきたインクジェットプリンターを買い換えようと思っている。
インクジェット式のインクには、一般に2つあり、顔料系と染料系と呼ばれるものである。一般ユーザーとしての印象からは、顔料系インクは黒などの定着がよく、それほど紙質を選ばなくてもいいようだ。いわゆるインクジェット専用紙でなくとも、十分な印字品質が得られるらしい。配布資料など、主にモノクロ印刷が多い場合、こちらがいいように感じる。
一方、これまで使っているものは染料系インクであり、先の専用紙を用いると、とても鮮やかな色合いを示してくれる。特に写真画像に向いているようだ。
補助教材や配布資料作成が主な用途になるということを考えると、今回は顔料系インクのプリンターを購入しようと思う。
顔料系プリンターでは、HPやリコーなどの評判がよいが、全色顔料で、カードや名刺サイズにも対応したE社のプリンターが有力な候補になりそうだ。
なお、顔料系インクとは、英語でpigment ink、染料系インクは、dye inkとそれぞれ言う。pigmentとは、ラテン語のpingere「染める、着色する」から来ており、paintやcolorの関連語である。
毎年のことではあるが、このころになると、予算消化で細かい作業が増える。
今年度分の予算がまだ残っているので、劣化してきたインクジェットプリンターを買い換えようと思っている。
インクジェット式のインクには、一般に2つあり、顔料系と染料系と呼ばれるものである。一般ユーザーとしての印象からは、顔料系インクは黒などの定着がよく、それほど紙質を選ばなくてもいいようだ。いわゆるインクジェット専用紙でなくとも、十分な印字品質が得られるらしい。配布資料など、主にモノクロ印刷が多い場合、こちらがいいように感じる。
一方、これまで使っているものは染料系インクであり、先の専用紙を用いると、とても鮮やかな色合いを示してくれる。特に写真画像に向いているようだ。
補助教材や配布資料作成が主な用途になるということを考えると、今回は顔料系インクのプリンターを購入しようと思う。
顔料系プリンターでは、HPやリコーなどの評判がよいが、全色顔料で、カードや名刺サイズにも対応したE社のプリンターが有力な候補になりそうだ。
なお、顔料系インクとは、英語でpigment ink、染料系インクは、dye inkとそれぞれ言う。pigmentとは、ラテン語のpingere「染める、着色する」から来ており、paintやcolorの関連語である。
2010年1月27日水曜日
bluffing
最近の朝のニュースでは、必ずと言っていいほどさまざまな政治家が画面に登場し、自論なのか、原稿を読んでいるだけなのかは分からないが、もっともらしい発言をしている姿を見かける。
新政権は、かつての野党であったころの勢いは弱まり、受け身にまわっているように映る。あれほどまでに旧政権に立ち向かっていたころの凛とした政治姿勢は影をうすめている。
もし、いまの弱腰な対策が続くようであれば、かつての(マニフェストを掲げた)演説などは、「虚勢」を張っていたとしか言いようがなくなる。
一般に英語で「虚勢」とはbluffという。オランダ語の「自慢する、誇りに思う、(ほらをふく)」あたりから発展してきた語のようだ。また、ポーカーで、弱いカードでも、強いカードがそろっているようにふるまうこともbluffという(poker-faceはしばしば無表情であることを指す)。さらに、特にイギリス英語のようだが、形容詞のbluffには「(必ずしもネガティブではなく)ぶっきらぼうな、率直な」という意味もある。ただ、通例は「はったりをかます、(実力もないのに)えらそうにする」のニュアンスが強いようだ。
身近にもalways bluffingな人を見かけるが、おそらく自分のこれまでの、そして現在に自信がないのであろう。ただ、安っぽいprideだけはあるようだ。それが、bluffingな姿勢にでてしまうのであろう。
教育研究の世界にいると、常に業績をもとめられ、それが自己の社会的評価にもつながる。 つまり、業績を積むこと、教育研究に精進すること、それがこの道を選んだものの社会的責任というものではなかろうか。
当然のことながら、数々の業績をお持ちの学者と呼ばれる方々は、人物的にもすばらしい。やはり、業績を積んでこられた実績が“真の自信”となり、その人の発言の重みや、信頼性、人間性を高めてくれているに違いない。逆にいえば、業績のない人は、自信ではなく、思い込みが醸成され、発言の軽薄さを補うためにbluffingな態度に依存せざるをえなくなるのだ。
上記のalways bluffingな人も、業績はいっこうにあがらないが、年齢だけは自然と上がっていく、そうした自分にどこかもどかしい思いをしているのであろう。そして、そのもどかしさからの解放のために、“率先して”~長と付けてもらえるような、組織構造の中でのより“高い”ところに行きたがるのだ。先の学者と呼ばれる方々は、“率先して”~長のような役職にはつこうとしない。なぜなら、煩雑な会議などに忙殺され、研究時間が割かれるからである。
おそらく、周囲に対するbluffingな姿勢は、決して望ましいことではないが、その人の心の(負の)カタチなのかもしれない。
新政権は、かつての野党であったころの勢いは弱まり、受け身にまわっているように映る。あれほどまでに旧政権に立ち向かっていたころの凛とした政治姿勢は影をうすめている。
もし、いまの弱腰な対策が続くようであれば、かつての(マニフェストを掲げた)演説などは、「虚勢」を張っていたとしか言いようがなくなる。
一般に英語で「虚勢」とはbluffという。オランダ語の「自慢する、誇りに思う、(ほらをふく)」あたりから発展してきた語のようだ。また、ポーカーで、弱いカードでも、強いカードがそろっているようにふるまうこともbluffという(poker-faceはしばしば無表情であることを指す)。さらに、特にイギリス英語のようだが、形容詞のbluffには「(必ずしもネガティブではなく)ぶっきらぼうな、率直な」という意味もある。ただ、通例は「はったりをかます、(実力もないのに)えらそうにする」のニュアンスが強いようだ。
身近にもalways bluffingな人を見かけるが、おそらく自分のこれまでの、そして現在に自信がないのであろう。ただ、安っぽいprideだけはあるようだ。それが、bluffingな姿勢にでてしまうのであろう。
教育研究の世界にいると、常に業績をもとめられ、それが自己の社会的評価にもつながる。 つまり、業績を積むこと、教育研究に精進すること、それがこの道を選んだものの社会的責任というものではなかろうか。
当然のことながら、数々の業績をお持ちの学者と呼ばれる方々は、人物的にもすばらしい。やはり、業績を積んでこられた実績が“真の自信”となり、その人の発言の重みや、信頼性、人間性を高めてくれているに違いない。逆にいえば、業績のない人は、自信ではなく、思い込みが醸成され、発言の軽薄さを補うためにbluffingな態度に依存せざるをえなくなるのだ。
上記のalways bluffingな人も、業績はいっこうにあがらないが、年齢だけは自然と上がっていく、そうした自分にどこかもどかしい思いをしているのであろう。そして、そのもどかしさからの解放のために、“率先して”~長と付けてもらえるような、組織構造の中でのより“高い”ところに行きたがるのだ。先の学者と呼ばれる方々は、“率先して”~長のような役職にはつこうとしない。なぜなら、煩雑な会議などに忙殺され、研究時間が割かれるからである。
おそらく、周囲に対するbluffingな姿勢は、決して望ましいことではないが、その人の心の(負の)カタチなのかもしれない。
2010年1月25日月曜日
drive-thru
日頃お世話になっている研究者の方とたまたまドライブスルーの話題がでたので、取り上げてみた。
一般にアメリカのファーストフード(McDonald'sやTaco Bell等)では、幹線道路沿いにドライブスルーを設置していることがある。
まず、一旦メニュー一覧のあるmenu boardで停車し、その手前にあるspeaker box[post]にむかって、注文をする。店内では、通例ワイヤレスのmicrophoneをつけたスタッフが注文を受ける。
注文品と金額を確認したら、そのまま車を進め、注文品を受けとり、支払いをするpick-up windowまで行く。
これで車から降りることなく、まさにdriveしながら注文品を受け取りthroughすることができる。
自分の経験では、上記のファーストフードのほか、bankingと呼ばれる銀行手続きをdrive-thruでしたことがある。当時はエアシューターで紙幣のやり取りをした記憶がある。(防犯上、直接手が触れるようにはなっていなかった)
そのほか、コンビニや簡単な郵便手続きが可能なdrive-thruや、結婚の手続きが行えるdrive-thru chapel、葬儀(会葬者は車から安置されている遺体と対面するらしい)までもが行えるdrive-thru funeralなど、日本では想像もつかないようなdrive-thruが存在する。これも、車社会のお国柄であろう。
なお、drive-throughと表記することもあるが、一般にはdrive-thruを多く見かける。
一般にアメリカのファーストフード(McDonald'sやTaco Bell等)では、幹線道路沿いにドライブスルーを設置していることがある。
まず、一旦メニュー一覧のあるmenu boardで停車し、その手前にあるspeaker box[post]にむかって、注文をする。店内では、通例ワイヤレスのmicrophoneをつけたスタッフが注文を受ける。
注文品と金額を確認したら、そのまま車を進め、注文品を受けとり、支払いをするpick-up windowまで行く。
これで車から降りることなく、まさにdriveしながら注文品を受け取りthroughすることができる。
自分の経験では、上記のファーストフードのほか、bankingと呼ばれる銀行手続きをdrive-thruでしたことがある。当時はエアシューターで紙幣のやり取りをした記憶がある。(防犯上、直接手が触れるようにはなっていなかった)
そのほか、コンビニや簡単な郵便手続きが可能なdrive-thruや、結婚の手続きが行えるdrive-thru chapel、葬儀(会葬者は車から安置されている遺体と対面するらしい)までもが行えるdrive-thru funeralなど、日本では想像もつかないようなdrive-thruが存在する。これも、車社会のお国柄であろう。
なお、drive-throughと表記することもあるが、一般にはdrive-thruを多く見かける。
2010年1月24日日曜日
nervous habit
子供の頃、足を揺らしたり、指をコツコツ机などに叩いたりしている子がいたことを覚えている。日本では、そうしたことを「貧乏ゆすり」と呼んで注意したものだ。これには、昔落ち着きがなく足などを揺らしている様子が、経済的に困窮している人の落ち着きのない様子と重なり合ったからだという説がある。
現代社会では、「貧乏」という経済的困窮者がその「貧乏ゆすり」をするとは限らない。むしろ、一般の方で、単に落ち着きのない方に多いように感じる。特に視野の狭い、バタバタした性格の人はこうした動作を無意識にひと前でも“うっかり”してしまうようだ。
英語で、「貧乏ゆすり」の「貧乏」を意味する表現は用いないので、直訳してもネイティブには通じないであろう。おそらく、"nervous habit"がそれに近い表現になる。つまり、「緊張した、落ち着きのない、びくびくした様子を表す癖」ということなのであろう。具体的には、足を揺らすjiggling foot(特に足を組んでつま先をパタつかせるような動き)、足[ひざ]を上下に動かし、かかとをコツコツさせるtapping foot、指で机をコツコツ叩くtapping finger(s)、爪をかむbiting nail(s)/nail-biting、(比較的女子に多い)髪の毛を指でくるくるさせるtwirling hair (with[around] finger(s))などがある。
そうした癖のある人のことをそれぞれa foot-jiggler、a foot-tapper、a finger-tapper、a nail-biter、a hair-twirlerと呼ぶこともある。
おそらくこうした癖は育った過去や現在の生活環境に左右されているのかもしれない。
私の周りにもa foot-and-finger(s) tapperという“ダブル”の"tapper"がいる。会議中、若者音楽の“ラップ”のように、見事なまでの"tap"を奏でることがしばしばある。もうそこまでいくと、不快というより・・・。
現代社会では、「貧乏」という経済的困窮者がその「貧乏ゆすり」をするとは限らない。むしろ、一般の方で、単に落ち着きのない方に多いように感じる。特に視野の狭い、バタバタした性格の人はこうした動作を無意識にひと前でも“うっかり”してしまうようだ。
英語で、「貧乏ゆすり」の「貧乏」を意味する表現は用いないので、直訳してもネイティブには通じないであろう。おそらく、"nervous habit"がそれに近い表現になる。つまり、「緊張した、落ち着きのない、びくびくした様子を表す癖」ということなのであろう。具体的には、足を揺らすjiggling foot(特に足を組んでつま先をパタつかせるような動き)、足[ひざ]を上下に動かし、かかとをコツコツさせるtapping foot、指で机をコツコツ叩くtapping finger(s)、爪をかむbiting nail(s)/nail-biting、(比較的女子に多い)髪の毛を指でくるくるさせるtwirling hair (with[around] finger(s))などがある。
そうした癖のある人のことをそれぞれa foot-jiggler、a foot-tapper、a finger-tapper、a nail-biter、a hair-twirlerと呼ぶこともある。
おそらくこうした癖は育った過去や現在の生活環境に左右されているのかもしれない。
私の周りにもa foot-and-finger(s) tapperという“ダブル”の"tapper"がいる。会議中、若者音楽の“ラップ”のように、見事なまでの"tap"を奏でることがしばしばある。もうそこまでいくと、不快というより・・・。
2010年1月22日金曜日
instant coffee
私にとってコーヒーは、緑茶同様、日々の生活に欠かせないものとなっている。
基本的にはドリップしたてのコーヒーや抽出したてのエスプレッソを飲みたいところではあるが、時間的制約のある朝(自らの行動が制約をつくってしまっている要因ではあるが・・・)などはいわゆる“インスタントコーヒー”を飲むことが多くなってきた。
すでにお気づきの人も多いだろうが、インスタントコーヒーには主に2つのタイプがある。1つは、粉末状のもので、もう1つは顆粒状のものである。一般に、粉末状のものは、抽出したコーヒーの液体を圧力で噴射させ、急速に乾燥させたものであり、顆粒状のものは、マイナス40℃以下で凍結させてから砕いたものを乾燥させたものである。
英語でinstant coffeeと表記されるが、経験上instant coffeeを飲んでいる英米語圏の人を見かけることは少ない。そこは、"cafe culture"ともいうべきお国柄なのかもしれない。実際、アメリカでは、コンビニなどいたるところでドリップされたコーヒーをいただくことができる。
なお、上記の粉末状のinstant coffeeは、その製造工程からも分かるように、spray-dried instant coffeeと言い、粒の大きい顆粒状のものはfreeze-dried instant coffeeと呼ばれている。
基本的にはドリップしたてのコーヒーや抽出したてのエスプレッソを飲みたいところではあるが、時間的制約のある朝(自らの行動が制約をつくってしまっている要因ではあるが・・・)などはいわゆる“インスタントコーヒー”を飲むことが多くなってきた。
すでにお気づきの人も多いだろうが、インスタントコーヒーには主に2つのタイプがある。1つは、粉末状のもので、もう1つは顆粒状のものである。一般に、粉末状のものは、抽出したコーヒーの液体を圧力で噴射させ、急速に乾燥させたものであり、顆粒状のものは、マイナス40℃以下で凍結させてから砕いたものを乾燥させたものである。
英語でinstant coffeeと表記されるが、経験上instant coffeeを飲んでいる英米語圏の人を見かけることは少ない。そこは、"cafe culture"ともいうべきお国柄なのかもしれない。実際、アメリカでは、コンビニなどいたるところでドリップされたコーヒーをいただくことができる。
なお、上記の粉末状のinstant coffeeは、その製造工程からも分かるように、spray-dried instant coffeeと言い、粒の大きい顆粒状のものはfreeze-dried instant coffeeと呼ばれている。
登録:
投稿 (Atom)
【お知らせ】研究ブログを移動しました!
本研究ブログの容量がいっぱになりましたので、新研究ブログを立ち上げました。 心機一転、研究ブログを再開したいと思います。引き続きどうぞよろしくお願いします。 新研究ブログは こちら
-
■茶会における主たる[最上位の]客のことを「正客」(しょうきゃく)と言い、その連れの客(正客と一緒にもてなし受ける客)のことを「相伴」(しょうばん)と呼び、正客の相手をつとめ、同様にもてなしを受ける、という意味としても用いる。 お茶席では、まず正客に(濃茶であれ、薄茶であれ...
-
■以前にも取り上げたが、千利休の教え[茶の心得]である利休百首におさめられているものに 「 稽古とは一より習ひ十を知り十よりかへるもとのその一 」 というのがある。これは、日々精進を重ね、一から十まで習ったとしても、またはじめての一に立ち返ることで、習得したことに...
-
■今日もさわやかな秋晴れが広がっている。とても気持ちがよいものである。この季節、茶の湯の世界では、「祥風」という銘をあてることがある。「祥」にはよころばしい(こと)、よろこばしいことの前ぶれ[兆し]、という意味がある。つまり、「祥風」とは、「よろこばしい(ことの)風」もしくは「...