2012年12月5日水曜日

くびれ


■先日の京都出張の合間に、日頃の規制食を一時解禁し、久しぶりに京料理に舌鼓を打った。同僚の先生方との昼食会では京湯葉をいただいた。京都らしい町家づくりの店構えに、入店前から気持ちが少し高ぶった。仲居さんの対応も好意的で、ちょっとした食前酒代わりになるほどであった。注文後、ほどなくして、食事が運ばれてきた。数種類の小鉢から構成される京懐石弁当風の料理は、どれも美味で、ダイエット中の筆者にはちょうど良いサイズの黒ごま豆腐プリンを食す頃には、京都の味で体内が浄化されたような気分になった。
 帰りの新幹線内でも京のおばんざい弁当をいただき、食欲は京都で十二分に満たされたのだが、帰宅後、我に返り、すぐに体重等のチェックをおこなった。幸いにも、大きな変動は見られず、ほっとした。ただ、ほんの少しだけ、わき腹の肉がもたついているような感じがした。そこで、ちょっと気になったことが、こうしたわき腹の無駄な贅肉のことをしばしば英語でmeatというが、その逆、つまり、「くびれ」に相当する語*は何であろうか、ということである。確かにこれまでの経験上「くびれ」にあてはまる語は聞いたことがなかった。通例美しい「くびれ」のある方に対しては、"a shape like an hourglass"(砂時計のようなスタイル)や"bottle"((コーラのような)瓶に似たスタイル)というが、それは「くびれ」部分だけを指しているのではなく、体型のことを言っている。そこで、これはかなり俗語的で、教育上好ましくないかもしれないが、女性の丸みを帯びた曲線(美)のことを"love curve"**ということがある。但し、"love curve"は、正面から見た際に強調される「くびれ」部分のみならず、横から見た際にも強調される胸[バスト]と腹部まわりとの差によって生み出される(腹部まわりの)曲線(美)も含まれており、必ずしも(わき腹を主とする)「くびれ」の曲線だけではない。それでも、"love curve"は、女性特有の曲線(美)と言える「くびれ」に最も近い表現の1つに思える。ちなみに、ダイエット的に好ましいと考えられる「くびれ」は、ウェスト:ヒップ比である程度観察できるそうだ。ウェストサイズをヒップサイズで割り、その値が0.7であれば、女性的な美しいウェストラインや「くびれ」がある、と言えるというものだ。男性は骨格の関係で女性のような極端な「くびれ」は出ないが、いわゆる「メタボ」に対する目安として、同比が0.9であることが望ましいとされているそうだ。
 なお、先のわき腹の贅肉のことを"love handles"、すなわち、異性が好意を示す際に両手で(ハンドルのように)握れるほどの贅肉、と言うことがある。興味深いことである。■

*『スーパー・アンカー和英辞典』(第2版)では、「くびれたウェスト」のことを"wasp waist"「スズメバチのようなウェスト」と言うことを紹介している。これは主にウェストを絞ったファッションのライン[デザイン]を指すことが多い。特に19世紀頃のイギリスをはじめとするヨーロッパでは、(wasp waist) corsetやgirdleで腰を絞ったファッションが上流階級を中心に流行していた。これは、腰を絞り、胸と尻回りをより強調することで、feminine beautyを醸し出そうというねらいがあったものと考えられる。
  
 wasp waist corset (1885)
したがって、(例えば)ビキニ姿の(くびれがある)女性に対してはこの語を用いることはそれほど多くはないものと考えられる。その他、"pinched-in"といった表現もあるが、これは(ウェスト部を)挟んだ[つまんだ]ような形という意味で、無理に絞り込んだというニュアンスが残り、feminine beautyに欠ける。
**Urban Dictionaryでは、"love curve"を”The soft concave curve found on both sides of the waist in young females with hourglass shaped figures."と定義しており、これは(女性の)ウェストの両側を指す、と解釈できる。



2012年12月4日火曜日

京の侘び・・粧[装]い



・・・言葉も控えるほどの美しさです。

大徳寺黄梅院

清水寺
・・・まさに、山粧[装]ふ。


2012年11月29日木曜日

Body cleansing ≒ ボディクレンジング !?


■日本でも話題になった映画「プラダを着た悪魔」(原題:The Devil wears Prada)の主人公Andyを演じたAnne Hathaway氏が、ファッション誌Vogue12月号の表紙を飾ったことが一部報道された。一時期過食気味で、スタイルがかなり崩れたということであったが、同誌では見事な美貌とスタイルでご自身を表現されておられる。報道記事によると、氏はbody cleansingにより、体型を整えた(取り戻した)とのことであった。Body cleansingとは、body detoxificationとほぼ同義であり、ハーブエキス等を定期的に摂取することにより、体内の毒素[老廃物]を除去し、肝機能などの働きを改善することをねらいとするものである。毒素[老廃物]を排泄、浄化することにより、代謝機能も高まり、ダイエット効果が期待できるとのことである。
 一方、カタカナ表記のボディクレンジングを検索すると、ソープやボディシャンプーを後置要素として結びつき、肌をきれいにするための液体洗浄剤としての商品紹介が検索上位に登場する。特に、落ちにくい日焼け止めクリーム対応をウリにしているものが多い。
 こうしてみると、体内の洗浄、浄化を主眼とするbody cleansingに対し、体外、特に肌をキレイにすることを主に意味するボディクレンジングという、両者の違いが分かる。 これも日英言語文化の違いに起因するものと言えよう。
 ところで、筆者も英語文化のdietを継続中だが、開始から約3か月半が経過し、体重8キロ減、体脂肪率(変動が激しいので平均)4.5%減、体年齢(?)も、ついに実年齢マイナス7歳となった。筆者は特にdetoxificationのようなことはおこなってはいない。いわゆる英語文化的なdiet、すなわち、バランスのとれた(糖質控えめの)食事と、規則的なトレーニング(筋トレと有酸素運動)である。これまで無理なく継続できている。最近では、リンゴ酢と黒酢も積極的に取り入れることで、(トレーニングなどの)疲労軽減にも成果を感じている。とにかく、良い意味で、「痩せ」てきたと言える。パンツ[ズボン]類も拳1~2個分が入るようになり、腰をベルトで絞り込むため、こちらはデザインのシルエットが崩れるという意味で困っている。また、体重減にともない、膝や腰も軽くなり、日々の生活が楽になった。 ここでも、日英言語文化の違いがあるのだが、日本人同僚からは、「先生、最近“痩せ”ましたね」と言われることが多くなったが、英語圏文化の同僚からは"You look great"と声をかけられる。もちろん、顔つきやイントネーションにより、様々な意味が付加されることはあるが、単に“痩せ”ましたね、では、時に病的[不健康]な“痩せ”も想起させることになるであろう。いくらコンテクストに依存する日本語文化とは言え、もうひと言、ふた言、言葉を足すとより好意的なコミュニケーションになると思う。例えば、「最近痩せましたね。(体や顔つきが)締まってきましたよ」などである。とにかく、こうした点も、日本語文化、英語文化を比較対照させることで顕在化されてくる。(身近な)日々の営みにも興味深いことはまだまだありそうだ。

2012年11月25日日曜日

Turkey nap, Black Friday, and Cyber Monday


■今日で3連休も終わり、また明日から通常の勤務日が始まるが、アメリカでも今週末は木曜のThanksgiving day(感謝祭の祝日)から大学などはちょっとしたBreak(短期休暇)であったことであろう。そうした折、少し前に米国留学時の大学からalumni(卒業生の複数形;単数形はalumnus)宛ての電子メールが筆者のところにも届いた。その中に下記のような画像が貼り付けられていたので、ちょっと紹介しよう。これは、ThanksgivingのTo-Doリスト(やるべき用事の一覧)を題材にした大学への寄付宣伝用であり、日本では、正月用の買い物リストといったところであろうか。その中にある、"feast"というのは、「祝宴」という意味であり、一般にはThanksgiving dinnerを指す。その後の、"take a turkey nap"がおもしろい。日本でも、正月のおせち料理やお屠蘇をいただき、炬燵の中で、ついうたた寝、ということがあろうかと思うが、前掲したThanksgiving dinnerの食事のあとには、ついソファなどで寝てしまうということがどこのアメリカの家庭でも見られる。そこで、そのThanksgiving dinnerの主役とも言えるturkey(七面鳥;名前の由来はGuineafowl(ギニア産ホロホロチョウとの混同) )を食した後に眠くなる様子から、そう呼ばれているのであろう。そして、その次の"watch a parade"は、通例ニューヨーク・マンハッタンのダウンタウンを練り歩く老舗デパートMacy's主催のパレードのことである。このパレードのほか、college footballを見るというのも恒例である。
 そして、木曜のThanksgiving dayが終わると、"Black Friday"と呼ばれる、クリスマス前商戦が一斉に全米各地で始まるのだ。筆者も"Black Friday"に近くのmallに出かけたことがあったが、ひどい渋滞に巻き込まれ、散々な思いをしたことがある。日本人的感覚からすれば、セールはクリスマスまで継続されるわけであり、感謝祭翌日の金曜日だけに必ずしも目玉商品が出されるというわけでもない。それでもアメリカ人は皆一斉にspending spree(過剰に買い物すること)と化してしまうのだ。これはもう抽象的ではあるが、「文化」の一端としか言いようがないくらいである。(もっとも、アメリカ人が一斉に動き出すという点においてはある意味「秩序的」ではあるが、shopping mall内やその周辺の様はそうとは言えない・・・)
 そして、インターネット時代を反映するかのように、感謝祭明けの月曜からは、"Cyber Monday"と呼ばれるネット通販を中心としたセールが始まるのである。実際、米国Amazonや(アジアの隣国がアクセス制限をかけられたことで話題になった)Gapのサイトでは、"Cyber Monday Deals Start Today"(「サイバーマンデー」のオンラインセールが本日始まります)などの宣伝文句が昨日今日あたりから画面上に見られる。
 日本ももうすぐ師走に入り、慌ただしい雰囲気になってくるが、海の向こうのアメリカでは、そうした時期がひと足早く来たようだ。






http://g-ecx.images-amazon.com/images/G/01/img12/x-site/cyber-monday/h1-banners/cyber-monday-h1_470x40-2_up._V400510654_.jpg



研究論文とは




■「研究論文」には、我々を取り巻く<世界>の中で、研究者が関心のある特定領域(<世界>の一端)に対する問題提起とその解釈(の一部)について、仮説や推論、先行研究への批判的考察、数値的検証を加えながら客観的妥当性を示し、論理的整合性を維持しながら、独自の見解や今後の検討課題を導き出すという点が含まれるであろう。
 その場合、前掲した「自然科学分野」における論文であれば、研究者が接触する、すなわち経験する<世界>を主に数字や記号で表現したり、再現しようと試みたりすることが多い。そして、数値化や記号化された<世界>を分析考察結果に基づいて再現可能な状態として記録、保存、共有することで知の体系化の基盤として蓄積していくことになる。そして、後進の研究者が先行研究としてそれらの研究を参照しながら、新たな問題提起、解釈、発見をしていくきっかけとなる。こうした一連の学術活動が人類の<進化>の一端を担っていると考えられる。
 同様に、「人文(社会)科学分野」の論文であれば、上述の<世界>を言語で表現したり、再現しようとしたりすることが多い。また、言語は外の<世界>の代替表現[符号]としてだけではなく、人の内なる思考、認識、感覚等の外化として記録、保存、共有、すなわち、ある「実態[]」とそれに接触[経験]する人の認識や解釈等に関する「知識」としての「情報」の主体にもなりうる。もちろん、数字や記号も、ある自然現象に関する“科学的”に集約された「知識」の主体として用いられている限り、「情報」の一端と言える。しかしながら、<世界>の一部としての現象を解明する数値化や記号化の分析過程は通例複雑であり、「情報」の圧縮率も高いため、その再現は、人の日々の営みにおいては、容易ではない。それゆえ、日常生活における「知識」としての「情報」の共有と伝達、広義の「コミュニケーション」においては、「言語」を用いることの方が都合がよい、いわば合理的である、ということである。この点から、人の営みに関する事象や社会現象に対する接触、考察、認識、その結果としての知識化は、基本的に「言語」によって構成されることになる。そして、「人文(社会)科学」における研究論文において、「言語」が分析考察の主たる構成要素であるということは、分析対象となる<世界>の“切り出し”が、「知識」としての「情報」の圧縮率が高い数字や記号を駆使した「自然科学」におけるそれよりも、大きいということである。また、その“切り出し”方も一定とは限らない。したがって、先行研究の参照・批判や数値的検証等による客観的妥当性の確保と論理的整合性の維持が重要となってくる。さもなければ、(客観性に欠ける)主観的な見解もしくは、単なる独り言の類になってしまう。それはそれで、日記のようなものであれば問題はないが、「知の体系化の基盤」として蓄積され、人類の未来に活用されるために、こうしたことは肝要である。その意味で、研究者というものは、過去と未来を紡ぐ<世界>の伝承者としての一面も備えていると言えよう。■


2012年11月24日土曜日

日英言語文化小論(6)【自然科学と人文(社会)科学】




■前掲したように、「・・・しかしながら、先の様々な自然現象の科学的論証や実験に基づく合理的実証への着想が、(秩序付けられた)人類の日々の営みの中で醸成される感性によって養われるということであれば、「科学」は「文化」の一部という見方もできる。この点は、「科学」が自然界の現象の体系的解明を主とする「自然科学」と、人類や社会の事象や概念を論証する「人文科学(社会科学)」との二分化(三分化)されることと関連があると言える。」という点に触れたが、「科学と文化」という枠組みの中で、「自然科学」と「人文科学(社会科学含む、以下同じ)」との分類についてもう少し考えてみたい。
 通例「自然科学」との対比として「人文科学」と言う場合は、それは研究[分析]対象によるものである。ある自然現象(の実態[])に関して(研究者の“科学的直観”により立てた)仮説による推論を合理的に実証し、普遍的法則性(と時に新発見)の記録と保存により、再現性が認められるような解明とその体系化は、「自然科学」と言える。数字や記号、それらを用いた公式などは、対象となる自然現象(の実態[])の(人為的な)代替コード[符号]であり、現象の再現に用いられる法則性の記録と保存に必要となる。
 一方、個々の生活におけるある事象や社会現象、その総体としての文化()現象に関して、主に言語を代替コード[符号]として充てることで、様々な文化()現象を分析可能な状態にしていると考えられるが、その言語を媒介として、現行研究となる文化()現象に関する(経験に基づいた)解釈と、先行研究との論理的整合性の検証(と時に新発見)が中心となるのが「人文科学」と言える。例えば、過去の文化()現象に関する法則性、換言すれば社会規範、慣習、マナー等を、言語を用いて記録、保存し、再現性が現代においても維持されているのであれば、それは「伝統」ということになり、今後の解釈や検証の根拠となりうる。最近では、言語学、特に英語メディアに表出された社会現象を分析対象とする分野において、言語を数値化し、その分析対象言語と共起する語との結びつきとその変容等の数値解析から、客観的妥当性を加味することで、(主観的になりがちな研究者の)解釈の検証過程において論理的に破綻しないような試みがなされている。
 このように、自然現象の主たる代替コードとして数字や記号を、文化()現象の主たる代替コードとして言語を、それぞれ用いて諸現象の法則性、規範、慣習等(の実態[])を解明し、再現可能な状態になるよう記録・保存することが「科学」(の一端で)であり、「自然科学」であれ、「人文科学」であれ、“科学的”実証[検証]の結果が蓄積され、共有されることが「知識」であり、一般的知識体系の構築が(“自然”との対比から)豊かな人の営みの為に必要な秩序化となる「文化」と言えるであろう。
 もちろん、「真理の追究」としての「科学は科学」であり、「(人の)欲求の実現」としての「文化は文化」である。両者は、我々を取り巻く<世界>に関する、異なる独立した体系的知識およびその構築活動[作業]という一面も窺える。むしろ、現代においては、そうした主に「自然科学」の真理の追究を志す者を「科学者」とし、「文化」を含む「人文科学」の研究者を「科学者」と呼ぶことが控えられているように感じる。
 それでも、(自然との共生・共存から)人が実態[]との接触を通じて得た感覚や認識、すなわち経験に基づいて、人為的な数字や言語を用いて我々を取り巻く森羅万象の<世界>を数値的に説明したり、言語的に意味づけしたりするということにおいては、「科学」は「文化」的活動の一端であり、「文化」は「科学」的探究にも支えられている、と考えられよう。この問題については、まだまだ考察が必要だ。(・・・続く)

2012年11月19日月曜日

日英言語文化小論(5)【科学と文化】


■今年度のノーベル医学生理学賞に京都大学・山中伸弥氏が選出されたことは記憶に新しい。氏の受賞は、停滞(気味)中の経済界を尻目に、明るい話題を科学界に提供してくれた。さらに、その功績を称え、文化勲章も授与された。印象的であったのは、親授式後の氏の記者会見のコメントであった。氏は、「「科学者にとっては、ノーベル賞はとても光栄な賞かもしれないが、日本国民の一人としては、きょうこの日が一番光栄な瞬間」と述べられた。筆者のような稚拙な者が氏の心情を察するのもおこがましいことではあるが、世界的に注目されるノーベル賞よりも、日本人として天皇陛下から“勲章”をいただくことの方が(ずっと)意味のあることだ、ということであろう。日本人としての誇りを感じるひと言である。

さて、山中氏は、日本のみならず世界を代表する科学者であるが、科学者とは何か、という疑問が湧いてきた。一般的に科学者とは、「科学を研究[探究]する者」ということになろうが、それでは「科学」とは何か、ということを平易に考えてみたい。ちょっと大げさな話になってしまうが、人類は混とんとした自然と共存しながら進化してきたと言える。そして、混とんとした自然の<世界>における様々な現象を数値解析、客観的観察等により合理的に実証することが、「科学」の一面にあると考えられるであろう。特に「自然科学」を研究対象とする場合、合理的に実証し、論証することで、体系化、すなわち自然現象の普遍的な法則性というものを顕在化させることが研究目的の1つとなる。この点において、「自然科学」分野の研究は共有領域が広いため、世界的にも認知され易いと言える。
「自然」がありのままの<世界>であるのに対し、「自然」との共存・共生の中で、人類が(人類の本質として備える)進化のために社会を秩序付け、生活環境を整えた<世界>を「文化」と呼ぶことができよう。そして、「文化」は、ある不特定多数の集団がある事象に関する考えや価値観を、根拠となる「知識」とそれに関する「情報」によって共有することにより成立すると言える。そこで、「科学」の英語相当語となる”science”を考えてみると、”science”とは、”knowledge about the structure and behavior of the natural and physical world, based on facts that you can prove, for example by experiments…”(Oxford Advanced Learner’s Dictinary)とあり、語源的にもラテン語で”knowledge”を意味する” scientia”に由来する。つまり、人類を取り巻く自然界や物質界に関する(合理的に実証された法則性等の)「知識」が”science”の主成分であるならば、「知識」の解明[探究]および獲得と、その共有によって成立する「文化」は「科学」の一端ということになろう。しかしながら、先の様々な自然現象の科学的論証や実験に基づく合理的実証への着想が、(秩序付けられた)人類の日々の営みの中で醸成される感性によって養われるということであれば、「科学」は「文化」の一部という見方もできる。この点は、「科学」が自然界の現象の体系的解明を主とする「自然科学」と、人類や社会の事象や概念を論証する「人文科学(社会科学)」との二分化(三分化)されることと関連があると言える。例えば、味噌汁をつくる際に、煮干しで出汁をとると、「うまみ」がでておいしくなる、ということは(人文[社会]科学としての)「食文化」の一端であり、その知識を代々受け継いでいくことは「文化的継承」と言える。それに対し、「うまみ」の成分を実験により解明し、グルタミン酸、イノシン酸、グアニル酸等を抽出後、何パーセント何が含有されているとおいしくなるのかを実証することは、「自然科学」と考えられる。この意味において、「自然科学」には実験によって得られたデータに基づく再現性が発生することになる。(・・・続く)


2012年11月12日月曜日

真[深]の国際交流とは


■本日勤務先で顧問を務める茶道部も参加した学校茶道の合同茶会があった。その茶会に、勤務先の同僚教員が参加してくださった。氏は外国語が堪能で、日頃から国際交流等に尽力されておられる聡明なお人である。また、人格者であり、学生、教職員、保護者を問わず、周囲からの信頼も厚い。
 今回の合同茶会では二席しかまわることができなかったが、終了後、有意義な時間を過ごされたというご連絡をいただいた。氏曰く、表層的な所作のみならず、その背景にある(深層の)意味、概念、哲学等に強く魅せられたということであった。まさに同感である。そもそも筆者が茶の道を志した要因の一つが、点前の所作や道具の意味を通訳する際に、茶の道とその根底にある日本文化(の本質[源流])の理解なくしては的確な伝達はきわめて困難であると感じたからであった。この点は、氏が指摘するように、茶道と深層の日本文化に対する関心に通ずるものであった。
 もちろん、茶道は日本文化のすべてではないし、本流と断定することもできないであろう。それでも、茶道を介して伝承される“こころ”は、日本や日本人の“こころ”を映し出しているように強く思う。 これは、氏や今日参加された未来の伝承者としての学生がこうした“こころ”に共感し、茶の道に安らぎと喜びを感じ、心穏やかな時間と空間を体感しているということにほかならない。氏やこうした学生を見る限り、茶道を介した日本文化の伝承が、「アニメ[マンガ]」や「ゲーム」が海外メディアの注目を集める昨今、日本と諸外国との相互理解、すなわち、真[深]の国際交流の一助であり続けるということを、これからも期待してよいと思う。
 個人的には外国文化教育、とりわけ英米文化偏重の用例やトピックを配するテキストを使用した外国語教育とそれを根拠とする国際人の育成には否定的である。そはそれで、海外留学を検討している学生等には(それなりに)有用であろうが、それでも、留学先で日本(文化)と日本人について意見を求められることが必ずある。まずは、日本(文化)と日本人を十分に捉えた、いわば外国語による日本(文化)教育というものを日本語による教育と併用して実践するべきであると考える。諸外国と外国語を理解するためには、しっかりと母国である日本(文化)と母語である日本語を身に付け、日本人としてのアイデンティティを確立し、それを認識するべきであろう。自己が何者であるかも適切に理解し、説明できない者に対して、(諸外国の)他者は決して信頼しないであろうし、相互理解などというものはそれこそ不可能であろう。
 筆者の考える真の、深の国際交流とは、日本(文化)と日本人を理解した上で、諸外国との同質性や異質性に気を配りながら、歩み寄っていく、ということである。その意味で、日本(文化)と日本人の“こころ”の一端として茶道を介した日本(語)教育と、それをふまえた外国語および外国文化教育というのは効果的であると考える。今後は、茶道をきっかけに、書道、折り紙、武士道・・・まだまだ日本らしいモノやコトはある、日本人として、日本で生活する者として、日本をふまえた国際交流というものにぜひ取り組みたいと思う。■


2012年11月11日日曜日

ハレの舞台


■ハレの舞台の「ハレ」とは、通例「晴れ」であり、非日常のことを指すと考えられる。たとえば、祭事や儀礼的行為は「ハレ・晴れ」にあたる。つまり、「ハレの舞台」とは、非日常の(一生に一度あるかないような)特別な時間や機会を表す概念である。(「ハレ」の対称概念は日常的な「ケ(褻)」であり、いずれも柳田国男が唱えた日本的世界観の一つである)
  今日東京日野市にある高幡不動尊で学校茶道の合同茶会があった。顧問を務める勤務先の茶道部も参加させていただいた。ちょうど七五三の時期とあって、「ハレ姿」の親子も多くおられた。そうした中、勤務先茶道部の学生諸君にとっても、日頃の稽古の成果を、諸先生方に披露するまさに「ハレの舞台」であったと言えよう。茶の道の大先輩を前にして、時に優しく、時に鋭い視線が所作の一つ一つに注がれる中で点前を行うというのは、日頃のプレッシャーのない稽古、すなわち「ケ」の時間とは全く異質な、「ハレ」の時間であったことであろう。それでも、亭主や半東、お運びをしっかりとつとめ、しかも諸先生方からお褒めのお言葉までいただいたということは大変喜ばしいことであり、学生諸君の成長の証しである。それはもちろん、外部講師の裏千家教授K先生のご指導の賜物であるということは言うまでもない。
 また一年後、学校茶道の合同茶会が予定されている。亭主や半東役の担当学生は交代していくことになろうが、本年度とは違った成長の姿を楽しみに、これからも稽古に励み、日々精進していきたいと思う。 ■
 

2012年10月29日月曜日

【再投稿7】Gruss Gott !!



Gruss Gott !!

先日、オーストリアへの海外出張から帰国した。
アメリカ偏重気味の自分にとって初めてのヨーロッパであったので、非常に興味深い出張となった。オーストリアはドイツ語圏であるが、皆英語を流暢に話す。 少なくとも、こちらの言う事は100%分かってもらえる。今回の目的は、南部の中都市・クラーゲンフルトにあるエンジニア系の学校と協定を結ぶための表敬 訪問である。英語が外国語であるということに変わりはないので、相手校の様子を見ることで、我が国の英語教育の問題点を探るいい機会になるかもしれない。 そこには3日間滞在し、1日目の午前はオーストリアの教育体制、2日目の午前には日本の教育体制等を議論し合った。それぞれの午後には授業を見て回った。 おそらく準備をしていたようで、教員も学生も東洋からの訪問者に驚くことなく、落ち着いて対応してくれた。(今度は“実状”を見たいものだ)3日目には近隣 にある第2、第3の学校を訪問した。特に第3の学校は狩猟用の銃製作で世界的に有名なところで世界各地から留学生が学んでいた。また、一生に一度になるで あろう実弾を撃つ機会を得た。思った以上の衝撃で、あらためて銃の怖さを考えさせられた。
ところで、協定予定先の学校では、皆きちんと挨拶をしてくれた。そこでよく耳にしたのが、“Gruss Gott”(uはウムラウト、ssはエスツウェット)であった。英語で言うHelloにあたるそうだ。たとえベンチで座って勉強や、おしゃべりをしていた としても、我々が通るとそう言って挨拶してくる。日本では、廊下をすれ違うときであっても「こんにちは」と言ってくる学生が減少している中で、ちょっとし た驚きであった。しかも皆目を合わせてくる。文化の違いもあろうが、やはりどこを見ているのかわからないで挨拶されるよりは良い。コミュニケーションをと るということは日頃の習慣や日々の環境によって大きく影響されるものなのだと強く感じた。外国の人とコミュニケーションをとりたいからといって、外国語学 校に通ったとしても、語学だけではカバーできない一面もあるということであろう。外国語を学ぶということは、単に「コトバ」としてそれを学ぶだけではな く、それを取り巻く環境、すなわち「文化」を知ることであるということを実感した。
Posted by sekine at 21:40(2005年4月9日)

2012年10月28日日曜日

和敬清[静]寂


■昨日、本日と本務校の学園祭が行われた。顧問を務める裏千家茶道部も茶席を設け、学生部員が日ごろの稽古の成果を披露した。特に稽古期間の短い新入部員の堂々たる点前には、外部講師の先生とも驚きを隠せなかった。若い学生の習得力は本当に素晴らしいものだ。
 そうした中、本務校と産学連携を締結している地元金融機関の方から、「和敬清寂」について質問を受けた。筆者も茶道に携わる身としてその意味は理解していたが、その由来に対する認識は十分ではなかった。最初は仏教[禅宗]の教えであり、日本文化を投影するものである、という回答をさせていただいた。必ずしも茶道の教えというわけではない、ということも付け加えた。ところが、外部講師の先生に確認したところ、 千利休の教えである「四規七則」に基づくものであり、利休居士が唱えた茶道の心であるということであった。確かにその通りである。個人的には茶道の精神の礎には仏教[禅宗]があり、その仏教[禅宗]の普及とともに、茶道も広がり、1つの“道”として確立されてきたのであろうという理解であった。つまり、茶道理念としての「和敬清寂」の背景には、仏教[禅宗]があるという意識が強すぎたのかもしれない。そこに、上述したような「和敬清寂」は茶道の教えだけではない、という不適切且つ軽率な回答をしてしまった原因があったのであろう。
 再度確認するが、茶道は仏教[禅宗]の心の持ち方と強い関わりを持ちながら発展し、利休居士によって和(周囲と調和し)、 敬(相互に敬い礼を尽くし)、清(心清らかに)、寂(心穏やかに動じず)という茶道の心得四則が提唱され、これが茶道の基本精神になった、という理解で良いであろう。幸い、質問された方と学内でまたお会いでき、名刺交換する機会が得られたので、あらためて先の失礼な回答をお詫び申し上げた。こうしたことも茶道を通じた1つの“ご縁”かもしれない。あいにく小雨が降り続いていたが、心の中は清らかな1日を過ごすことができた。外部講師の先生、学生諸君、歩み寄って質問してくださったT氏、ご来場してくださったみなさまに感謝する。■

 ※平成24年度学園祭出展・裏千家茶道部茶席(御園棚)

2012年10月21日日曜日

sign, autograph, and signature


■日本人学生が間違えやすい語の1つにサインがある。頻出する事例は、有名人に対する「サインください」や、入室や支払いチェックの際の「サインお願いします」等の「サイン」である。通例サインはsignという英語に由来するものと考えられるが、カタカナ語としてのサインは、上述したように複数の場面で用いることができる。しかしながら、英語では場面に応じた単語を用いることになる。まず、有名人に対する「サインください」は、autographを用いて、"Can I have your autograph?"等と言う。また、入室や支払いチェックの際の「サインお願いします」は、signatureを用いて、"Put your signature here, please?"などと言える。それでは、英語のsignはどのような場合が多いであろうか。一般的にはtrafffic sign(s), caution sign(s), stop sign(s), closed sign(s)のように、公に(不特定多数を対象に)何らかの情報を周知する目的で用いられるものに対しsignが使われる。つまり、signは共通のメッセージを含む記号や符号のようなものと考えられる。ちなみに、手話も英語ではSign languageという。こうした点から、個人を対象にしている上記2つのサインの事例にsignが不適切であるということは明らかであろう。
 それでは、autographとsignatureの違いは何であろうか。いずれも個人の署というニュアンスは感じ取れるであろうが、そこには幾分か差異がある。まず、autographはauto「自の」とgraph「書いたもの」が結びついたもので、現代社会ではほぼ有名人の自筆の署、つまり「サイン」という意になっている。それに対し、signatureは手書きによる自分の名前ということで、しばしば公の書類上に記名することを指す。つまり、autographは限定的にある特定の人物の自署であり、signatureは他者と区別し、人物を特定するための公的なニュアンスを含む自署、ということになろう。なお、signatureは「他者と違う、その人特有の・・・」という意で特にスポーツの世界で用いられることが多い。例えば、"a signature player"と言えば、あるチームの「看板選手、顔」ということである。また、"signature play"と言えば、ある特定の選手の「お得意の[その人らしい]プレー」ということになる。さらに"signature moment"であれば、「(最も)印象的な瞬間[時]」となる。■

祥風


■今日もさわやかな秋晴れが広がっている。とても気持ちがよいものである。この季節、茶の湯の世界では、「祥風」という銘をあてることがある。「祥」にはよころばしい(こと)、よろこばしいことの前ぶれ[兆し]、という意味がある。つまり、「祥風」とは、「よろこばしい(ことの)風」もしくは「よろこばしいことを運ぶ風」といったところであろう。(他の例として「不祥事」とはまさに「よこばしくないこと」ということ)
 茶道ではまもなく炉の季節となり、一般的にも慶春を迎える準備を始める頃となる。日本と日本の文化観を伝えるにふさわしい言葉の1つである。個人的にも好きな言葉であり、この季節の銘の1つとして選ぶことにしている。
 来週から勤務先で学園祭が催されることになっている。顧問を務める裏千家茶道部も茶室を設ける予定である。今回は正座に慣れていない方にも茶道の雰囲気を楽しめるようにと考案された立礼という座って行う点前となり、御園棚を用いる。日ごろ賑やかな学内の一室を借りてそこに茶室を設置するわけであるが、この時ばかりは、学内に「祥風」が流れているように感じるのは、筆者だけであろうか。■

 ※参考画像:御園棚(商品購入サイト画像)

2012年10月15日月曜日

日本メディア英語学会第2回(通算第54回)年次大会終了


■先週土曜日、無事日本メディア英語学会年次大会が盛況裏に終了した。秋晴れにもめぐまれ、自然と都市が共存する幕張の地で、実り豊かな1日を過ごすことができた。学際色あふれる研究発表、現職ジャーナリストによる基調講演等、予定されていた内容が滞りなく遂行されたのも、大会運営委員長をはじめ、学会関係者各位のご尽力の賜物である。本当に感謝の気持ちでいっぱいである。今回、大学教員を中心とする“プロの英語(関係)の先生”に交じって、開催校の学生による研究発表も行われた。その1組を拝聴させていただいたが、よく鍛えられていた印象をもった。本務校でも同年代の学生を指導しているが、彼らのようなプレゼンテーションスキルを得るには、あと数年は必要に感じた。つまり、そのぐらいの差があった、ということである。指導者的視点からも、学生による発表は良い刺激となった。さらに嬉しいことに、発表学生のうちの一人が終了後に挨拶に来てくれた。特に気のきいたコメントをしたわけではなかったが、歩み寄ってひと言挨拶ができる若者が少なくなってきている昨今、とても感じの良い学生であった。彼に明るい未来を感じた。来年は、関西地区での年次大会が予定されている。関東地区の学生とはまた違った若者の知のエネルギーが感じられるかもしれない。楽しみである。■

 【幕張より朝富士を望む】

2012年10月8日月曜日

若さと勢い


■先日勤務先で自主トレーニング中に、同グラウンドで正規授業をおこなっていた同僚教員にお声をかけていただき、急きょ、学生と一緒に授業を受けることになった。現在の実技課目はサッカーで、5対5のミニサッカーに混ぜていただいた。左足骨折後、リハビリを兼ねたトレーニングもそろそろ3カ月となり、その仕上げとしては良いだろうと考え、参加することにした。体のキレや膝、そして左足の骨折部の復調具合を知るにも適当であろうと思った。
 いわゆる一般学生とのプレーであり、サッカー経験者不在の中でのサッカーのため、特に危険性は感じなかったが、「若さ」と「勢い」は感じ取られた。間違いなく、瞬発力や体力はまさに青春真っ只中の彼らには及ばないであろう。ボールをキープすると、がむしゃらにボールを取りにくる姿勢に、そのあたりを体感することができた。何だか久しぶりの感覚に、少し嬉しい気分になった。
 チームメートに恵まれ、結果的に(授業の一環のため、勝負は関係ないが)勝ち点で1位となった。自身のプレーも、リハビリ最終テストやスニーカーシューズ着用、そしてふたまわりも違う、息子といっても過言ではない年頃の学生相手という条件にしては、十分なものであった。それでも、判断力やポジショニング等を修正する必要性が残っているが、それもこれから実戦を重ねていくしかないであろう。加齢とともに、肉体だけでなく、そうした部分がかなり衰えているのを感じた。
  そして、学生がむかってきてくれたように、息子とサッカーボールを蹴る日を想像しながら、(加齢とも格闘しながら)体調を維持していきたいということを、終了後シャワーで汗を流しながら感じた。その日を夢見て、引き続きトレーニングを継続していきたいと思う。■


追記:継続しているダイエットであるが、2カ月程度でBMIが(理想値と言われる)22に戻り、安定してきた。体脂肪率は日や計測時間によって変動はあるが、標準値内後半におさまっている。 これを標準値内前半にまでに下げたいと思う。折しも今日は「体育の日」。英語的には、"Health and Sports Day"と言う。秋晴れの中、各地で運動会が行われたようだ。日頃運動不足を感じておられる諸氏も、スニーカーの紐をギュッと締めて、外に出てみてはどうであろうか。。。

2012年9月30日日曜日

成長のカタチ


■先日、学生が研究室に手土産を持って、立ち寄ってくれた。無事に夏期インターンシップを終えたという報告を兼ねて、挨拶に来てくれたようだ。その学生とは、教員として出会ってからもう6年になる。思い出せば、入学当初は1つ1つ、それこそ「手取り足取り」指導したものであったが、今では、外部の組織に身を置きながら、単身研究に励み、多くを学ぶまでになったようだ。頼もしい限りである。しかも、帰り際には、世話になった(と本人が感じているであろう)教員への手土産まで買い求めるようになった。派遣先の地元銘菓であった。
 基本的に、筆者は(当然のことだが)学生に自分の専門分野を教授している。この学生に対しても同じである。あえて、それ以外のことを教授した記憶はない。もっとも、教育の場以外での会話の一端を学生自身が汲み取り、自分の中で咀嚼したのかもしれない。 とにかく、インターシップ終了後には、手土産をもって教員のところに挨拶に行くものだ、などと言った覚えはないし、そういうことを言うつもりもない。
 今回学生自身が不可視的な「感謝」や「礼」といった概念を、可視的に表現しようとしたカタチの1つであると筆者は捉える。そして、そうしたことを学生自身が自ら学びとった、感じとったことに<ヒト>としての成長が窺える。 そうした成長の一端を共有できること、それが何よりの喜びであり、次なる教育への情熱の糧となる。こちらこそ、学生諸君の成長に感謝したい。
 現在"On Diet"の身ではあるが、学生の成長を“味わい”ながら、おいしくいただこうと思う。■


2012年9月13日木曜日

On Diet


◆先日の投稿で、現在リハビリを兼ねてトレーニング中であることに触れたが、ここ数日その成果が数値として明確に現れてきたようだ。勤務先である教育機関の前期日程が終了する頃から少しずつトレーニングを始め、今日で1ヶ月半程度になる。当初、骨折の影響もあってか、骨折部のある左足を中心に、筋力が相当落ちていた。それゆえ、ちょっと速めに歩く[ウォーキング]だけでも、骨折部以外の膝や付け根部に負担がかかり、そうした部分を痛め、思うようにトレーニングが継続できなかった。
 筋力トレーニングと同時に、骨折により、いわゆる「なまった」体を再び引き締めるためにも、食事の見直しも行っている。筆者は飲酒喫煙とは縁がないものの、糖分は比較的多く摂取する食習慣があった。食後の口直し[デザート]はもちろんのこと、水分補給も糖分を含むソフトドリンクを好んで飲むことがあった。運動の機会が奪われた中での、こうした食習慣の継続は、必然的に体を「蝕んで」いった。その結果は、締まりのない体、ということだ。学生時代から相当な運動量を要するスポーツに関わってきたこともあってか、それなりの体型は維持してきたつもりではある。それでも40代に入り、そうしたトレーニングの貯金も使い果たしてしまったのかもしれない。情けないことに、衣服、とりわけパンツ[ズボン]類は、サイズアップを余儀なくされた。健康診断の数値も悪化した。
 目に見える体型の変化と黄信号を照らしている数値は、筆者を筋トレと食事の見直し[制限]の実行に駆り立てるには、十分なものであった。
 強い動機付けの中で始まったダイエットであるが、約6週間が経ち、(個人情報なので具体的な数値は避けるが)体重3.5キロ減、体脂肪率3%減、内臓脂肪レベル値1.5減(標準値内)、体年齢(?)4歳減(実年齢2歳減)等々と、明らかに数値が改善された。また、(お恥ずかしい話ではあるが)これまで腹部をへこませてはいていたズボン[パンツ]類も、拳1つ分が入るまでに戻った。特に、体重が減ることで、上掲したように、骨折部以外の箇所への負担が軽減され、それゆえトレーニングの継続が大分楽になった。それに加え、油を使った肉料理から蒸し野菜料理に変え、食事摂取時刻と炭水化物摂取量の制限、糖分を(多く)含むデザートやソフトドリンク類を排除するなど、食生活の見直しの成果により、当初の目標値をほぼ達成できたと言えよう。
 これまでも機会あるごとに触れてきているが、バランスの良い食事と運動により、「健康的な生活習慣を達成する」という意の英語のdiet*を無理なく実践できたことを大変嬉しく思う。せっかく適正な生活習慣が身になってきたので、このまま継続、すなわち“on diet”でいこうと思う。◆

*山岸勝榮(明海大学教授)著『100語で学ぶ英語のこころ』(研究社刊)pp.60-61.



2012年9月10日月曜日

日英言語文化小論(4)【コンテクスト】


■前回の投稿で、学生と教員とのコンテクストの差、すなわち「低コンテクスト文化」の一面について触れた。それはそれで決して好ましいことではないが、言語文化的には興味深い点を映し出している。これまでも、日本語文化圏は、言語よりもその言語が運用される環境に依存した(文化人類学者Edward Hall氏が提唱する)高コンテクスト文化であることを指摘しているが、先の教育環境においては、いわゆる「以心伝心」のような概念は共有されておらず、明確に学習態度を正すための何らかのメッセージが必要である、という(言語を伴った)状況に依存したコンテクストが支配していたと考えられる。これはやや粗い解釈とは思われるが、言語学者Michael A.K. Halliday氏が提唱するSituational context(状況的コンテクスト)に相当すると言えよう。Halliday氏は「選択体系機能言語学」の第一人者であり、(おおざっぱではあるが)言語はそれが運用される状況と親和性が高く、有機的に結びつきながら、ヒトは状況に依存する言語(情報)の意味を醸成したり、理解したり、共有したりしているという立場をとっている。
 Hall氏のコンテクスト文化が言語と思想、信念、価値観等のヒトの社会的営みの根拠となるべき深層要因との関連性に注目しているのに対し、Halliday氏の状況的コンテクストは(実際の)状況や社会活動といった表層要因と連動しながら言語(情報)の解釈が変容しているという点に注目している。
 お二人の言語と文化の関連性に関する理論の一端を拝借しながら融合すると、文化的環境に依存した高コンテクストな日本語文化圏ではあるが、特定の教育現場では、「目線をあわせる」という情報伝達行為には当該学生の態度を正すという意味的解釈はもはや存在してはおらず、(時代の変容のとともに)言語表現によって明確に指示する必要性が学生と教員に介在している状況的コンテクストが構築されている、ということであろう。そして、無数の状況的コンテクストが存在し、それぞれ言語に依存したコンテクストもあれば、状況に依存したコンテクストもあり、総体的には状況[環境]に依存したコンテクストの方が優勢なのが現代の日本語文化圏である、ということなのであろう。
 (嘆かわしい)教育現場の現状に、文化人類学と言語学界にそれぞれ多大なる影響を与えた学者の理論の一端を持ち出すのは、大変失礼なことなのかもしれないが、これもコンテクストの実例ということで、お許し願えると思う。■


2012年9月9日日曜日

日英言語文化小論(3)【以心伝心】


■日本語では、しばしば「察する」、「配慮」、「気遣い」、「言わなくても分かるよね」、「空気を読め」といったことが求められることが多い。「口は災いのもと」であり、「目は口ほどにモノを言う」ように、あえて言葉にして「角を立てる」よりも、目やその他の雰囲気から自分の気持ちを伝えようとしたり、相手の意図を汲んだりしようとしたりする言語文化的特性が存在する。それでは、そうした日本語の言語文化的特性はどういうものであろうか、もう少し掘り下げてみたい。
 上掲したような状況は、しばしば「以心伝心」という4字熟語で表現されることであろう。「以心伝心」とは、仏教用語の1つであり、禅宗の経典「六祖壇経」にある「法即以レ心伝レ心、皆令二自悟自解一」や、燈史[歴史書]である「景徳傳燈録」の中の「仏の滅する後、法を迦葉[釈迦の弟子の一人]に対し、心を以て心に伝う」の中にその教えが見てとれる。つまり、仏法の教え[神髄]を師から弟子へ伝える際のその様を表している。
 こうした仏教の教えに加え、日本の生活形態も「以心伝心」の精神に影響を与えてきたと考えられる。(大くくりではあるが)欧米の移動型狩猟牧畜文化に対し、日本は定住型農耕稲作文化であり、人間関係よりも、周囲の環境[自然]との関係性の方が重要であったと推測される。四季が比較的明確に存在し、特定の人々と定住しながら[ムラ社会化]、協働で稲作に従事する生活においては、その多くが共有されていたことであろう。つまり、生活の糧としての「コメ」の収穫という絶対的な共通項[目標]があったわけである。そのためには、他者との(言葉による)無用ないざこざを避ける方が賢明であり、周囲の様子から学んだり、態度や行動で教え[伝え]たり、相手の顔色を窺がうことで、その気持ちを察したりするという、今で言うところの(日本的な)コミュニケーション力を発達させてきたのであろう。いわゆる文化人類学者Edward Hall氏が提唱した文化モデル「高コンテクスト文化」に分類されるということである。日本語文化圏のように、思想、信念、価値観、その総体としての文化の多くが共有されているような文化的環境を指して「高コンテクスト文化」とし、欧米諸国のような、言語に依存する割合が高いような文化的環境は「低コンテクスト文化」とされている。
 これはあくまでも、筆者固有の言語文化的環境なのかもしれないが、本務校の一部の前期担当科目中において、「おしゃべりはやめなさい」、「ケータイ[スマホ]はしまいなさい」と学習態度を正すという行為を言語に依存しなければならない環境にあった。単に学生の方を見て、目を見ただけでは(俗に言う「睨みをきかす」)学生の肯定的な反応は得られなかった。仮にHall氏の文化モデルを支持するのであれば、同じ高コンテクスト文化にあっても、特定の教育環境は、低コンテクスト文化によって支配されていた、ということを認めざるを得ないことは、極めて残念なことである。我が国は、もはや純粋な高コンテクスト文化などではなく、高低混在のコンテクスト文化に変容したのであろう。■





2012年9月7日金曜日

日本メディア英語学会第2回(通算第54回)年次大会


 下記の日程で、一般社団法人日本メディア英語学会[JAMES]第2回(通算第54回)年次大会が開催されます。メディア英語を主たる研究対象とする研究発表および実践報告、基調講演等が行われます。なお、詳細は学会ホームページにてご確認ください。

【日本メディア英語学会第2回(通算第54回)年次大会】
日時:平成24年10月13日(土)10時受付開始
会場:神田外語大学(千葉市)




日本メディア英語学会は、平成23年4月、日本時事英語学会より名称変更いたしました。


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