2012年9月10日月曜日
日英言語文化小論(4)【コンテクスト】
■前回の投稿で、学生と教員とのコンテクストの差、すなわち「低コンテクスト文化」の一面について触れた。それはそれで決して好ましいことではないが、言語文化的には興味深い点を映し出している。これまでも、日本語文化圏は、言語よりもその言語が運用される環境に依存した(文化人類学者Edward Hall氏が提唱する)高コンテクスト文化であることを指摘しているが、先の教育環境においては、いわゆる「以心伝心」のような概念は共有されておらず、明確に学習態度を正すための何らかのメッセージが必要である、という(言語を伴った)状況に依存したコンテクストが支配していたと考えられる。これはやや粗い解釈とは思われるが、言語学者Michael A.K. Halliday氏が提唱するSituational context(状況的コンテクスト)に相当すると言えよう。Halliday氏は「選択体系機能言語学」の第一人者であり、(おおざっぱではあるが)言語はそれが運用される状況と親和性が高く、有機的に結びつきながら、ヒトは状況に依存する言語(情報)の意味を醸成したり、理解したり、共有したりしているという立場をとっている。
Hall氏のコンテクスト文化が言語と思想、信念、価値観等のヒトの社会的営みの根拠となるべき深層要因との関連性に注目しているのに対し、Halliday氏の状況的コンテクストは(実際の)状況や社会活動といった表層要因と連動しながら言語(情報)の解釈が変容しているという点に注目している。
お二人の言語と文化の関連性に関する理論の一端を拝借しながら融合すると、文化的環境に依存した高コンテクストな日本語文化圏ではあるが、特定の教育現場では、「目線をあわせる」という情報伝達行為には当該学生の態度を正すという意味的解釈はもはや存在してはおらず、(時代の変容のとともに)言語表現によって明確に指示する必要性が学生と教員に介在している状況的コンテクストが構築されている、ということであろう。そして、無数の状況的コンテクストが存在し、それぞれ言語に依存したコンテクストもあれば、状況に依存したコンテクストもあり、総体的には状況[環境]に依存したコンテクストの方が優勢なのが現代の日本語文化圏である、ということなのであろう。
(嘆かわしい)教育現場の現状に、文化人類学と言語学界にそれぞれ多大なる影響を与えた学者の理論の一端を持ち出すのは、大変失礼なことなのかもしれないが、これもコンテクストの実例ということで、お許し願えると思う。■
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