■今年度のノーベル医学生理学賞に京都大学・山中伸弥氏が選出されたことは記憶に新しい。氏の受賞は、停滞(気味)中の経済界を尻目に、明るい話題を科学界に提供してくれた。さらに、その功績を称え、文化勲章も授与された。印象的であったのは、親授式後の氏の記者会見のコメントであった。氏は、「「科学者にとっては、ノーベル賞はとても光栄な賞かもしれないが、日本国民の一人としては、きょうこの日が一番光栄な瞬間」と述べられた。筆者のような稚拙な者が氏の心情を察するのもおこがましいことではあるが、世界的に注目されるノーベル賞よりも、日本人として天皇陛下から“勲章”をいただくことの方が(ずっと)意味のあることだ、ということであろう。日本人としての誇りを感じるひと言である。
さて、山中氏は、日本のみならず世界を代表する科学者であるが、科学者とは何か、という疑問が湧いてきた。一般的に科学者とは、「科学を研究[探究]する者」ということになろうが、それでは「科学」とは何か、ということを平易に考えてみたい。ちょっと大げさな話になってしまうが、人類は混とんとした自然と共存しながら進化してきたと言える。そして、混とんとした自然の<世界>における様々な現象を数値解析、客観的観察等により合理的に実証することが、「科学」の一面にあると考えられるであろう。特に「自然科学」を研究対象とする場合、合理的に実証し、論証することで、体系化、すなわち自然現象の普遍的な法則性というものを顕在化させることが研究目的の1つとなる。この点において、「自然科学」分野の研究は共有領域が広いため、世界的にも認知され易いと言える。
「自然」がありのままの<世界>であるのに対し、「自然」との共存・共生の中で、人類が(人類の本質として備える)進化のために社会を秩序付け、生活環境を整えた<世界>を「文化」と呼ぶことができよう。そして、「文化」は、ある不特定多数の集団がある事象に関する考えや価値観を、根拠となる「知識」とそれに関する「情報」によって共有することにより成立すると言える。そこで、「科学」の英語相当語となる”science”を考えてみると、”science”とは、”knowledge about the structure and behavior of the natural and physical
world, based on facts that you can prove, for example by experiments…”(Oxford Advanced Learner’s Dictinary)とあり、語源的にもラテン語で”knowledge”を意味する” scientia”に由来する。つまり、人類を取り巻く自然界や物質界に関する(合理的に実証された法則性等の)「知識」が”science”の主成分であるならば、「知識」の解明[探究]および獲得と、その共有によって成立する「文化」は「科学」の一端ということになろう。しかしながら、先の様々な自然現象の科学的論証や実験に基づく合理的実証への着想が、(秩序付けられた)人類の日々の営みの中で醸成される感性によって養われるということであれば、「科学」は「文化」の一部という見方もできる。この点は、「科学」が自然界の現象の体系的解明を主とする「自然科学」と、人類や社会の事象や概念を論証する「人文科学(社会科学)」との二分化(三分化)されることと関連があると言える。例えば、味噌汁をつくる際に、煮干しで出汁をとると、「うまみ」がでておいしくなる、ということは(人文[社会]科学としての)「食文化」の一端であり、その知識を代々受け継いでいくことは「文化的継承」と言える。それに対し、「うまみ」の成分を実験により解明し、グルタミン酸、イノシン酸、グアニル酸等を抽出後、何パーセント何が含有されているとおいしくなるのかを実証することは、「自然科学」と考えられる。この意味において、「自然科学」には実験によって得られたデータに基づく再現性が発生することになる。(・・・続く)