2013年2月17日日曜日

茶の湯のことば―お煮えがよろしいようで・・


■茶の湯の世界は、しばしば「侘び」と形容されることがある。「侘び」とは千利休により大成された、茶の湯の世界における簡素な様を指す。装飾が極力避けられた四畳半[小間]の茶室では、簡素であるがゆえに、茶の香り、(柄杓から落ちる)水の音、釜から上がる湯気、茶道具の1つ1つ、亭主と客の言葉のやりとり、心遣い、気働き、あらゆることが、いわば、装飾となって、その時、その場だけの茶席を醸成している。まさに「一期一会」にふさわしい時間と空間を形成することになる。だからこそ、(由緒ある)茶道具との出会いは貴重ではあるが、亭主と客との間で生み出される“ことば”も重要であり、茶の湯の大切な構成要素と言える。この意味において、茶の湯[茶道](の稽古)は、点前所作や礼儀作法の学びの場であるとともに、“ことば”を磨く機会の場でもあるのだ。くだけた言い方をすれば、(対人)コミュニケーション力を鍛える場とも捉えられる。
  茶の湯では、当然を(抹)茶を飲むことが主になるが、比較的気軽な薄茶点前では、茶を差し上げた後、茶碗が亭主に返り、客から「どうぞおしまいを」と声がかかると、亭主の心配りにより、白湯を差し上げることがある。実際、鉄の釜で沸く湯は溶けだした鉄分により金属ミネラルが豊富である。炭で沸かした湯であれば、やわらかさが出て、なお良い。
 そして、白湯を差し上げる際に、単に「お白湯でもいかがでしょうか」と声をかけるだけでも、それはそれで構わないが、ひと言加えて、「お煮えがよろしいようですので、お白湯でもいかがでしょうか」とすると、印象が違うであろう。思わず“ぜひ”という気持ちになる。白湯と聞くと、人によっては、温かい水(時に湯冷まし)程度にしか思い浮かばないこともあるであろう。それが、「煮えが良い」という釜の中の湯の様子を伝えることで、客の創造をかきたて、湯に対する“食指”を動かすのであろう。確かに、侘びた、寂びた茶室で炭のはじけるような音や天井にむかって吹き上がる湯気を目の前にし、「煮えが良い」と勧められる白湯を断る理由など見つかるはずもない。
 茶の湯の世界では、先の炭の音、吹き上がる湯気、釜に水を一杓さす際の音なども「ごちそう」とすることがある。同様に、「ことば」もごちそうだ。

・・・「ことば」と、心配り、思いやり、礼節、作法、その他日本的価値観の総体、すなわち「(日本)文化」によって満たされた時間と空間が織りなす茶の湯の<セカイ>は、言語と文化を研究対象とする筆者が出会うべくして出会うこととなった『道』なのかもしれない。まことに有り難いことだ。■


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