2013年2月16日土曜日

日英言語文化小論(7)【廉恥の心】



 

 拙ブログでは、これまで<ウチなる心>の外化としての言語について触れてきている。そして、そうした言語の運用はそれを用いる人の経験や取り巻く環境に依存しているという点も取り上げている。つまり、大括りではあるが、言語運用は<ウチなる心>の外化であり、(人が感じた)<ソトの世界>の切り出しであり、それらが秩序付けられながら結び付いている関係性が言語文化ということになる。筆者は、混とんとした自然界との接触[経験]から、人が感じた[意識した]森羅万象を言語によって表現し、それらを不特性複数[多数]で言語情報として共有することで、文化が成立し、社会化が起こると考える。サピア・ウォーフ仮説[言語相対論(仮説)]では、「言語が文化を規定[規制]する」といった見解がある。確かにその通りである。さらに、(特定)文化の成熟化が進み、複雑多岐な社会構造を呈するようになった今日では、(相互作用として)文化が言語運用を規定[規制]することもある。俗にいう言葉の適材適所であり、言葉のTPOということである。目上の方に対する表現、友人への言葉、学生への指導上のコメント、結婚式でのお祝いのメッセージ、弔辞の内容、等々はかなりの部分が文化によって規定[規制]されていると言ってよいであろう。
しかしながら、複雑な現代社会においては、その構成員となる人々も多様化が進んでいる。それゆえ、(言語)文化による規定[規制]も、その落としどころが、最大公約数的にならざるを得ないということになる。特定の(複雑な)社会において細分化された異なる小文化に属する者同士が言語接触の際に発生する語感の違いなどが一例だ。具体的には、中高年層が受ける若者言葉の衝撃、(筆者も含めて)一部の客層が感じる飲食店のホール[接客]担当が用いる表現に対する(強い)違和感などである。残念ながら、そうした衝撃や違和感は、(言語)文化の潮流ということで、大半は見過ごされてしまう。一部の言語文化に敏感な方々が防波堤のように防ごうと試みても、そうした負の潮流は大きく激しいのが現状だ。いずれ不適切な(日本語)表現が適切になる時代[とき]が来るであろう。
さらに悲しいことに、言語文化に敏感な者による不適切な(日本語)表現の指摘行為が、被指摘者の受け取り方いかんによっては攻撃的や暴力的などと逆指摘する文化が構築されつつあるということだ。そして、そうした文化の発達を助長する語が「ハラスメント[harassment*]」である。これも文化による言語(運用)の規定[規制]と考えられよう。また、「ハラスメント」という語が堂々と自立歩行を進める文化においては、言語と文化の相互作用の結果として、誤用に関する被指摘者への保護措置が優先される社会ではその語がキーワードとなり成熟度を急速に高めている。これでは、不適切な(日本語)表現を正すための指導や教育がおいそれとはできそうにもない。学生や一般の方々であればまだしも、“センセイ”などと呼ばれる人であれば、教育や指導という名のもとに、(見過ごされる)誤用を流布することになる。しかも、それが毎年繰り返されることになる。タチが悪いことだ。誤用に気付き、それを正すことでその人が(近い)将来受けるであろう「恥」を回避する手助けのために、指摘者の方が精神的な負担を抱えるということは本当に虚しいことである。
 筆者は、幸いにも、筆者の拙文を指摘してくださる方に巡り合えることができた。特に(師と仰ぐなどと言うのも憚れるほどのお方ではあるが)真の大学教授であり、学者であり、人格者であり、家庭人であるそのお方に、多くのご教示ご指摘を賜った。有り難い(仏教用語を語源とする「有り難し(有るのは難しいほど大切な[貴重な])とはこういうことを言うのであろう。多忙を極めるそのお方が筆者のような若輩者のためにお時間を割いて下さり、筆者の(実に)拙い文に目を通して下さったのだ。今でも身近に指導を受けられるゼミ学生などが羨ましくてたまらない。他にも、学会における投稿論文の査読委員の先生方にはいつも感謝している。こちらも拙論に丁寧なコメントを付していただいている。さらに、論文や雑文等の編集担当(出版社)や校正(印刷業者)の方々である。そうした方々が筆者の拙い言葉の数々に手を加えてくださることで、それらが世に出た際に筆者が無用な恥を感じたり、批判を受けたりしなくて済んでいるのだ。
 だからこそ、筆者は自らの拙い表現に対するいかなる指摘にも「廉恥」の心で受け止め、それらを省みるように心がけている。「廉」とは、「心清らかな、潔い、無欲な」という意であり、すなわち「廉恥」とは「恥を潔く受け止める」ということになる。(しばしば性的な事象に用いられる「破廉恥(ハレンチ)」とは、「恥を恥と思わないこと」ということだ)
上述したように、現代社会は被指摘者が(筆者は過剰と考える・・)保護され、「ハラスメント」という語が堂々とひとり歩きするような文化性が優位である。これでは、「廉恥の心」は養われないであろう。そして、そうした文化潮流が教育界をも凌駕しようとしている。このような状況では、自己防衛のために、無用且つ煩雑なトラブル回避のために、不適切で、時に破廉恥な(日本語)表現を「見過ごす」しかないであろう。もっとも、「見過ごす」ような行為も「無責任」ということで批判の矛先が向けられることになる。本当に悩ましいことである。
筆者は人である。感情がある。時に心の痛みを覚えることもある。被指摘者の今後を考えた末の指摘行為が無用且つ煩雑なトラブルの火種になる可能性がある限り、不適切で破廉恥な(日本語)表現であっても、指摘行為を控えるのが賢明なのかもしれない。何より、そのようなことに時間を割かれることで、筆者にとってかけがえのない人への(筆者の)笑顔や清らかな心にほんのわずかでも乱れが生じるのは実に○○なことである。


*英語harassmentのフランス語源harass (harasser; harer; harrier)には、「疲れさせる、いらだたせる、急がせる、引っぱる、荒らす」等の意味がある。仮に誤用の指摘行為がharassに相当するのであれば、教育や指導はその一部にharass(ment)を含んでいるであろう。


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