2013年2月13日水曜日

幸せの道のり


■キャンパス内を歩いていると、ひとりの学生がカメラ片手に、何かを探しているようだった。その後、立ち止まり、シャッターを押す音がかすかに聞こえた。被写体が何であったかは定かではなかったが、彼は何かを感じ、それをフレームに収めようと思ったのであろう。そのフレームの中には、彼がその時感じた<セカイ>があったはずである。そして、それは画像として(デジタルであれば)ほぼ半永久的にこの世に残ることになる。それは彼のその時を生きた証しとなり、これから彼の大切な人となる方にとっての標[しるべ]となることであろう。これからも、彼にとって未来の大切な人のためにも、素敵な<セカイ>をフレームに収め続けてほしいと思う。
 筆者は、写真ではなく、言葉を紡ぐことで、自ら感じる<セカイ>を表現している。形態こそ違うが、その時感じた<セカイ>の内なる心の外化という点においては、画像も言葉も同様な意味を持つであろう。残念ながら、筆者は画像を評価するほどの才能は有してはいないが、分かる人が見れば、画像の持つ繊細なメッセージや、(対象<セカイ>の)粗い切り出し感、といったことがその画像には含まれているのであろう。同様に、言葉でも<セカイ>をいかようにも切り出し、表現することが可能だ。優しい言葉、厳しい表現、やわらかい語、温かい心のこもった文などである。これらは<セカイ>の切り出し方によるものであり、言葉はその時感じた<セカイ>の内なる心の外化という点から、それを用いた人の心の在り様と言える。
 しかしながら、言葉が内なる心の外化としてすべての人の心の在り様を投影するというわけではない。そこには、その人のこれまでの経験、そしてその経験の中で培われた思想、信念、価値観、すなわち、それらの総体としての(言語運用者としての)言葉の文化性というものがあるはずだ。例えば、英語文化圏の方であれば、キリスト教的精神に影響された心の在り様があり、日本人であれば、神道、仏教、和の精神等に代表される日本的世界[文化]観というものに影響されているであろう。さらに、日本語の場合には、言葉にあえて依存しないことで、すなわち沈黙によって<セカイ>を表現することがある。また、先の学生のこれまでの時間と筆者のこれまでのそれとでは、長さも密度も違うであろう。ゆえに、心の在り様も異なって当然である。
 筆者にもかけがえのない人がいる。先に触れたように、言葉に依存ぜずに<セカイ>を表現し、伝えることがある。ただそばにいるだけで幸せを感じる、といったことである。それでも、そのかけがえのない人がいつか筆者の感じた<セカイ>を辿りたいと思った時に、そのかけがえのない人が迷わないよう、標[しるべ]としての言葉を書きとめておきたいと思う。そして、そうした言葉を紡いでいく中で筆者の感じた<セカイ>(に近似した<セカイ>)を再現し、筆者の内なる心に触れてほしい。それが同じ<セカイ>を生きた証しとなり、幸せの道のりとなるのだから・・■

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