以前旧ブログサイトに投稿したものを画像化し、再投稿という形で表示したいと思う。当時自分が何を考えていたのか、大変興味深く感じる。 ・・・それにしても、“プライベートカフェ”とは何と稚拙なことか。
2010年11月29日月曜日
2010年11月28日日曜日
Vertical or Horizontal
これまで、“書きだす”ということについて私見を述べてきた。筆者も“書きだし”を日々実践しているが、その際、最初のメモ、ノート等へのアナログ的“書きだし”には、縦書きを用いている。英数字やそれらを基本とするパソコン使用が多い環境にいながらも、縦書きにより、右から左へと筆を走らせている。現在、先のパソコンをはじめ、ほとんどの新聞雑誌等のテキストメディア情報や書籍類のほとんどは横書きである。具体的な数値は調べていないが、個人の体感では、縦書きに日常触れる機会は1割にも満たないのではないであろうか。また、<ヒト>の視野角において、「情報受容能力に優れる有効視野は水平に30度、垂直に20度程度に過ぎず、注視点が迅速に安定して見える安定注視野は水平に60~90度、垂直に45度~70度程度である」という大阪大学の研究報告がある。さらに、同大大学院の交通安全性に関する有効視野の研究では、「広い有効視野が確保されていることは、情報の検出効率と注視移動効率という2点から情報獲得の際に重要となるのである」と報告している。
こうした点から、<ヒト>は“書きだす”と同時に、その“書きだされたもの”を瞬時に情報として再獲得し、その繰り返しによって、不可視的な思考を“それ”として認識しているという一面があるとするならば、安定注視野にしろ、有効視野にしろ、より広い視野角の方が効率的であり、疲労軽減の点からも望ましいと考えるのが一般的であると言えよう。その意味で、横書きが氾濫する現状からすれば、それにならって横書きによる“書きだし”が自然ともとれる。それでもなお、筆者はあえて縦書きの“書きだし”を実践している。
まず、画数が多く、上下の動きが多い日本語は、縦書きが書き易いと個人的に感じている。次に、職業柄、横書きのアルファベットを書く時間も相当量であるため、縦書きにすることで、その違いが明確になり、より強い(視覚的な)刺激となって(文字情報を)獲得できていると感じている。そして、単純で、最初の理由とも関連するが、縦書きの右→左方向への書きだしはleftyである筆者には都合が良いのである。横書きの左→右の押し出すような書きだしだと、文字を手で汚してしまいがちである。それを避けるために、手を丸めるようにすると、文字自体がいびつなものになってしまう。きわめて個人的で些細な理由をならべたが、特に2番目は大切にしたいと考えている。汎用性を考慮するのであれば、定形のパソコン入力への移行がスムーズな横書きの書きだしが良いであろう。しかし、筆者にとって、いずれ汎用性のために定形化が求められるようなことがあったとしても、最初の、それこそ取り留めのない思考(の一端)を“書きだす”ということには、自然で、それを書きだした時の時間、環境、感情などの“雰囲気”が付随される不定形な手書きの縦書き文字が望ましい。
こうした点から、<ヒト>は“書きだす”と同時に、その“書きだされたもの”を瞬時に情報として再獲得し、その繰り返しによって、不可視的な思考を“それ”として認識しているという一面があるとするならば、安定注視野にしろ、有効視野にしろ、より広い視野角の方が効率的であり、疲労軽減の点からも望ましいと考えるのが一般的であると言えよう。その意味で、横書きが氾濫する現状からすれば、それにならって横書きによる“書きだし”が自然ともとれる。それでもなお、筆者はあえて縦書きの“書きだし”を実践している。
まず、画数が多く、上下の動きが多い日本語は、縦書きが書き易いと個人的に感じている。次に、職業柄、横書きのアルファベットを書く時間も相当量であるため、縦書きにすることで、その違いが明確になり、より強い(視覚的な)刺激となって(文字情報を)獲得できていると感じている。そして、単純で、最初の理由とも関連するが、縦書きの右→左方向への書きだしはleftyである筆者には都合が良いのである。横書きの左→右の押し出すような書きだしだと、文字を手で汚してしまいがちである。それを避けるために、手を丸めるようにすると、文字自体がいびつなものになってしまう。きわめて個人的で些細な理由をならべたが、特に2番目は大切にしたいと考えている。汎用性を考慮するのであれば、定形のパソコン入力への移行がスムーズな横書きの書きだしが良いであろう。しかし、筆者にとって、いずれ汎用性のために定形化が求められるようなことがあったとしても、最初の、それこそ取り留めのない思考(の一端)を“書きだす”ということには、自然で、それを書きだした時の時間、環境、感情などの“雰囲気”が付随される不定形な手書きの縦書き文字が望ましい。
Write Things Out (3)
思考の可視化として“書きだす”ということは、(大げさに聞こえるかもしれないが)生命維持のために必要な行為[活動]であると言える。それは、まさに<ヒト>の「代謝」のようである。「代謝」とは、国語辞書的には、「1.古いものと新しいものが変わること;2.生体内で物質が次々と化学的に変化し、入れ替わること。また、それに伴ってエネルギーが出入りすること」ということになる。つまり、日々の営みの中で、新しい情報を得て、それらが脳内で消化、化学変化を経て、ある情報はエネルギーとなり、言葉や行動となって、<ヒト>の社会活動の構成要素となる。また不必要なものとして消化されない情報もある。そうした不必要な情報は、人体の分泌や排泄のように、脳外に出されるべきである。さもなければ、そうした不必要な情報は堆積し、日々絶え間なく得られる情報の整理、管理といった脳の代謝の大きな障害となってしまうものと考えられる。そして、そうした障害が脳のストレスとなる危険性をはらんでいるとするならば、上述した「“書きだす”ということは生命維持のために必要な行為[活動]である」ということも、見当はずれなことではないであろう。
一般に、健康維持のために新陳代謝を高める必要があると言われる。同様に、健全な思考のためにも、脳の代謝としての“書きだす”という行為を積極的に実践していこうと思う。
一般に、健康維持のために新陳代謝を高める必要があると言われる。同様に、健全な思考のためにも、脳の代謝としての“書きだす”という行為を積極的に実践していこうと思う。
2010年11月27日土曜日
Write Things Out (2)
前回思考の整理、管理のために“書きだす”ことの必要性について触れた。
近年普及したITやインターネットといったデジタル化の波にのまれそうになりながらも、 <ヒト>がいわゆるアナログである限り、頭の中の活動はアナログである。たとえ、 インプットがデジタル情報であったとしても、生来の“コンバータ”でアナログ化 しているのであろう。当然、アウトプットである“書きだし”も、アナログ式が自然であるし、楽なように思える。 筆記具を用いたノートなどへの“書きだし”はアナログ式書きだしの1つと言える。 パソコンなどを用いた定形文字による“書きだし”作業より、手書きの不定形な書きだし の方がより思考内容に近いアナログ感を味わえる。データ管理という視点からすれば、定形文字によるデジタル化にはかなわないであろう。実際、情報のデジタル化により、 キーワード検索やリンク付けなどが可能になる。アナログの不定形文字ではそうした ことは難しい。もしもアナログの書きだしメモを簡単にデジタル化するのであれば、 スキャナによる画像化が手っ取り早いであろう。(OCRによる文字読み取りは誤認識 がある)
筆者は手書きによる思考の“書きだし”を実践している。そして、さらに必要と思われる情報はパソコン入力で整理することにしている。このひと手間を加えている時間に、再考、再々考ができ、その時に加筆修正を行うことで、より精査された(とはいっても取り留めのない内容が大半だが・・)思考の可視化ができると考えている。
上述したように、データ管理の面からすれば、定形のデジタル文字は汎用性が高い。しかし、不定形の手書き[アナログ]文字には、個性があり、書き留めた時間や環境といったその時にしかない“雰囲気”が筆跡として残される。筆者は、この不定形の手書き文字に付随される“雰囲気” を大切にしたいと思っているし、次の思考への“リンク付け”であると考える。
近年普及したITやインターネットといったデジタル化の波にのまれそうになりながらも、 <ヒト>がいわゆるアナログである限り、頭の中の活動はアナログである。たとえ、 インプットがデジタル情報であったとしても、生来の“コンバータ”でアナログ化 しているのであろう。当然、アウトプットである“書きだし”も、アナログ式が自然であるし、楽なように思える。 筆記具を用いたノートなどへの“書きだし”はアナログ式書きだしの1つと言える。 パソコンなどを用いた定形文字による“書きだし”作業より、手書きの不定形な書きだし の方がより思考内容に近いアナログ感を味わえる。データ管理という視点からすれば、定形文字によるデジタル化にはかなわないであろう。実際、情報のデジタル化により、 キーワード検索やリンク付けなどが可能になる。アナログの不定形文字ではそうした ことは難しい。もしもアナログの書きだしメモを簡単にデジタル化するのであれば、 スキャナによる画像化が手っ取り早いであろう。(OCRによる文字読み取りは誤認識 がある)
筆者は手書きによる思考の“書きだし”を実践している。そして、さらに必要と思われる情報はパソコン入力で整理することにしている。このひと手間を加えている時間に、再考、再々考ができ、その時に加筆修正を行うことで、より精査された(とはいっても取り留めのない内容が大半だが・・)思考の可視化ができると考えている。
上述したように、データ管理の面からすれば、定形のデジタル文字は汎用性が高い。しかし、不定形の手書き[アナログ]文字には、個性があり、書き留めた時間や環境といったその時にしかない“雰囲気”が筆跡として残される。筆者は、この不定形の手書き文字に付随される“雰囲気” を大切にしたいと思っているし、次の思考への“リンク付け”であると考える。
Write Things Out (1)
“<ヒト>は思考する動物である”としばしば言われる。
また、<ヒト>は言葉を修得し、言葉で考える、と言われる。
そして、言葉の整理や管理が頭の中でうまくいかない場合、
<ヒト>は思い悩むのである。さらに、<ヒト>は日々の生活
の中で、言葉のみならず、多種多様な(道路標識などの)記号等の情報を大量
に得ることになる。それゆえ、頭の中で言葉を含む情報の
整理、管理がうまくいかないと、<ヒト>の思い悩みも深く、
大きなものになってしまうのである。
だからこそ、思考の整理、管理を円滑なものとするために、
決して見えることのできない頭の中の思考を可視化することが
必要なのである。そのためには、頭の中に思い浮かんだことを
“書きだす”ということが大切なのである。
また、<ヒト>は言葉を修得し、言葉で考える、と言われる。
そして、言葉の整理や管理が頭の中でうまくいかない場合、
<ヒト>は思い悩むのである。さらに、<ヒト>は日々の生活
の中で、言葉のみならず、多種多様な(道路標識などの)記号等の情報を大量
に得ることになる。それゆえ、頭の中で言葉を含む情報の
整理、管理がうまくいかないと、<ヒト>の思い悩みも深く、
大きなものになってしまうのである。
だからこそ、思考の整理、管理を円滑なものとするために、
決して見えることのできない頭の中の思考を可視化することが
必要なのである。そのためには、頭の中に思い浮かんだことを
“書きだす”ということが大切なのである。
・・・屋
先日日本語の「・・・屋」について、職業差別の観点から不適切ではないかとの指摘を受けた。
実際、NHKをはじめとする放送業界では禁止用語の1つに挙げられているそうだ。
こうした職業差別表現の問題は、これまでもあった。例えば、看護婦→看護師、スチュワーデス
→キャビン[フライト]アテンダントまたは客室乗務員、ウェイトレス→スタッフなど、特に性差に関わるものが目立つ。アメリカでは、ポリティカリーコレクト(ネス)[politically correct(ness)]として、政治的公正の見地から、メディア上の表現などを是正する動きがある。
今回の「・・・屋」であるが、個人的には文脈[コンテクスト]に依存するのではないかという印象をもっている。例えば、声を荒げて、「・・・屋のくせに」、「・・・屋のぶんざいで」、「・・・屋が何を言っているんだ」等であれば、その文脈から侮蔑の念が容易に推察される。一方、「この・・・屋さんのは、おいしいね」、「あそこの・・・屋さんに頼めば大丈夫だよ」、「・・・屋さんはいつも新鮮ね」等となれば、そこに悪意は
見当たらない。 むしろ、“政治的に妥当な表現”より親しみさえ覚える。
職業差別の禁止という点から、禁止用語(になりうる表現)を一律使用制限してしまうのは、日本語表現の豊かさを枯渇させてしまわないだろうか。今後の検討課題としよう。
実際、NHKをはじめとする放送業界では禁止用語の1つに挙げられているそうだ。
こうした職業差別表現の問題は、これまでもあった。例えば、看護婦→看護師、スチュワーデス
→キャビン[フライト]アテンダントまたは客室乗務員、ウェイトレス→スタッフなど、特に性差に関わるものが目立つ。アメリカでは、ポリティカリーコレクト(ネス)[politically correct(ness)]として、政治的公正の見地から、メディア上の表現などを是正する動きがある。
今回の「・・・屋」であるが、個人的には文脈[コンテクスト]に依存するのではないかという印象をもっている。例えば、声を荒げて、「・・・屋のくせに」、「・・・屋のぶんざいで」、「・・・屋が何を言っているんだ」等であれば、その文脈から侮蔑の念が容易に推察される。一方、「この・・・屋さんのは、おいしいね」、「あそこの・・・屋さんに頼めば大丈夫だよ」、「・・・屋さんはいつも新鮮ね」等となれば、そこに悪意は
見当たらない。 むしろ、“政治的に妥当な表現”より親しみさえ覚える。
職業差別の禁止という点から、禁止用語(になりうる表現)を一律使用制限してしまうのは、日本語表現の豊かさを枯渇させてしまわないだろうか。今後の検討課題としよう。
2010年11月25日木曜日
Can I ask you to do ~ ?
最近、いや数年前からか、「・・・してもらってもいいですか」という表現をあちらこちらで耳にするようになった。おそらく、出張先でも耳にするので、全国的に“普及”しているのであろう。
これは、「・・・していただけますか」や「・・・してください」等の依頼表現の“新”代替表現と考えられるが、人生半ばを過ぎたと言われる私の語感には馴染まない。
言葉はそれが用いられる地域の思想、信念、価値観、総じて文化と連動しながら、絶えず変化・変容するものだ。もちろん、淘汰されずに現代へと継承され続ける表現もある。それでも、生物の知や体の進化と同様に、変化変容することは不思議ではない。
近い将来、「・・・してもらってもいいですか」と尋ねられ、素直に応答できる日が来るかもしれない。
その時は、私も生物として環境に適応し、“進化”したと実感できるのかもしれない。
なお、「・・・してください」や「・・・していただけますか」を英語で表現すると、一般的には
Can you do ~ ?
Could [Would] you do ~ ?
あたりでよいであろう。
「・・・してもらってもいいですか」のニュアンスをだすのであれば、
Can I ask you to do ~ ?
にして、「・・して[する]の動作の主体」に「(して)もらってもいいかどうか」を自分が“あえて”尋ねるということでその雰囲気がでるかと思われる。もっとも、この英語表現は正当なものであり、違和感を覚える
ネイティブスピーカーは少ないであろう。
また、上記と関連して、「・・・してもらっても大丈夫ですか」という表現も耳にするが、これは
Is it OK to ask you to do ~ ?
などになるであろう。
これは、「・・・していただけますか」や「・・・してください」等の依頼表現の“新”代替表現と考えられるが、人生半ばを過ぎたと言われる私の語感には馴染まない。
言葉はそれが用いられる地域の思想、信念、価値観、総じて文化と連動しながら、絶えず変化・変容するものだ。もちろん、淘汰されずに現代へと継承され続ける表現もある。それでも、生物の知や体の進化と同様に、変化変容することは不思議ではない。
近い将来、「・・・してもらってもいいですか」と尋ねられ、素直に応答できる日が来るかもしれない。
その時は、私も生物として環境に適応し、“進化”したと実感できるのかもしれない。
なお、「・・・してください」や「・・・していただけますか」を英語で表現すると、一般的には
Can you do ~ ?
Could [Would] you do ~ ?
あたりでよいであろう。
「・・・してもらってもいいですか」のニュアンスをだすのであれば、
Can I ask you to do ~ ?
にして、「・・して[する]の動作の主体」に「(して)もらってもいいかどうか」を自分が“あえて”尋ねるということでその雰囲気がでるかと思われる。もっとも、この英語表現は正当なものであり、違和感を覚える
ネイティブスピーカーは少ないであろう。
また、上記と関連して、「・・・してもらっても大丈夫ですか」という表現も耳にするが、これは
Is it OK to ask you to do ~ ?
などになるであろう。
2010年11月16日火曜日
lefty
今朝のテレビで、たまたま神社へのお参りの作法が流れていた。
お清めのところでは、柄杓を右手で持ち、左手から水で清めていくという、
ごく一般的な解説であった。
その際、神社[神道]では、左を尊重するという思想から、そのような
作法になったという補足があった。そして、「奥の手」とは左を指すという
例も挙げられていた。
もちろんこうした事は諸説あることで、必ずしもそうであるとは言い切れない
ものの、少なくともそのような考えがあった、もしくは(現代にも)継承されて
いるということの一端は見えるであろう。
かくいう筆者も基本左利きである。社会的要請[制約]から、右手で扱う
動作も多々あるが、安心できる動作には左手が必要となる。特に
字をきれい、丁寧に書くような場合は左手にペンを持つ。
欧米では、日本よりも左利きに寛容のようだが、そうした事情もあってか、
左利き用のグッズが多く揃っているような気がする。万年筆もその1つだ。
日本でもドイツ・ペリカン社製の子供用万年筆ペリカーノジュニアのLefty(左利き)は有名だ。
お清めのところでは、柄杓を右手で持ち、左手から水で清めていくという、
ごく一般的な解説であった。
その際、神社[神道]では、左を尊重するという思想から、そのような
作法になったという補足があった。そして、「奥の手」とは左を指すという
例も挙げられていた。
もちろんこうした事は諸説あることで、必ずしもそうであるとは言い切れない
ものの、少なくともそのような考えがあった、もしくは(現代にも)継承されて
いるということの一端は見えるであろう。
かくいう筆者も基本左利きである。社会的要請[制約]から、右手で扱う
動作も多々あるが、安心できる動作には左手が必要となる。特に
字をきれい、丁寧に書くような場合は左手にペンを持つ。
欧米では、日本よりも左利きに寛容のようだが、そうした事情もあってか、
左利き用のグッズが多く揃っているような気がする。万年筆もその1つだ。
日本でもドイツ・ペリカン社製の子供用万年筆ペリカーノジュニアのLefty(左利き)は有名だ。
2010年11月13日土曜日
Open Campus/Class
今日、本務校では、「授業公開」が行われている。いわゆる「オープンキャンパス」とは少し違い、実際に現役学生の受講状況を見学できる。ただ1つに気になったことは、各教室とも教室いっぱいに広がって着席しているので、通例入るであろう、教室後部に見学スペースがないことだ。ましてや、扉が閉まった状態であれば、なおのこと入りにくいであろう。そのあたり、今後改善されるべき点であろう。
どこの大学、短大、高専も、学生獲得にさまざまな工夫を凝らしている。この授業公開もその1つであるが、他では「オープンキャンパス」として、施設見学が中心となる。そして、学校説明会や一部の教員による(一般向け)講義などが予定されることが多い。
興味深いことに、英語でOpen Campusというと、日本語のような「授業公開」や「キャンパス紹介」のような含みは少なく、むしろ「開かれた授業(大学)」のように、人種、性差等に関係なく、何人にも“開かれた”教育機関であることを指す場合に用いられることが多い。また、Open Classとなると、履修登録時に、「開講(されている)科目」として使われる場合が多い。
筆者が通っていたアメリカの大学では、大学専任のコーディネーターが適宜希望者を授業に案内していたことを記憶している。おそらく、本校のような「授業公開」のような年間スケジュールに組み込まれる業務はなかったように思う。これも日米教育文化の差異かもしれない。。。
どこの大学、短大、高専も、学生獲得にさまざまな工夫を凝らしている。この授業公開もその1つであるが、他では「オープンキャンパス」として、施設見学が中心となる。そして、学校説明会や一部の教員による(一般向け)講義などが予定されることが多い。
興味深いことに、英語でOpen Campusというと、日本語のような「授業公開」や「キャンパス紹介」のような含みは少なく、むしろ「開かれた授業(大学)」のように、人種、性差等に関係なく、何人にも“開かれた”教育機関であることを指す場合に用いられることが多い。また、Open Classとなると、履修登録時に、「開講(されている)科目」として使われる場合が多い。
筆者が通っていたアメリカの大学では、大学専任のコーディネーターが適宜希望者を授業に案内していたことを記憶している。おそらく、本校のような「授業公開」のような年間スケジュールに組み込まれる業務はなかったように思う。これも日米教育文化の差異かもしれない。。。
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【お知らせ】研究ブログを移動しました!
本研究ブログの容量がいっぱになりましたので、新研究ブログを立ち上げました。 心機一転、研究ブログを再開したいと思います。引き続きどうぞよろしくお願いします。 新研究ブログは こちら
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■茶会における主たる[最上位の]客のことを「正客」(しょうきゃく)と言い、その連れの客(正客と一緒にもてなし受ける客)のことを「相伴」(しょうばん)と呼び、正客の相手をつとめ、同様にもてなしを受ける、という意味としても用いる。 お茶席では、まず正客に(濃茶であれ、薄茶であれ...
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■以前にも取り上げたが、千利休の教え[茶の心得]である利休百首におさめられているものに 「 稽古とは一より習ひ十を知り十よりかへるもとのその一 」 というのがある。これは、日々精進を重ね、一から十まで習ったとしても、またはじめての一に立ち返ることで、習得したことに...
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■今日もさわやかな秋晴れが広がっている。とても気持ちがよいものである。この季節、茶の湯の世界では、「祥風」という銘をあてることがある。「祥」にはよころばしい(こと)、よろこばしいことの前ぶれ[兆し]、という意味がある。つまり、「祥風」とは、「よろこばしい(ことの)風」もしくは「...