2014年3月2日日曜日
日英言語文化小論(26)【尾頭付とwhole fish】
■前回魚の向きを取り上げたが、それは頭と尾がその向きの対象として存在するからである。日本の食文化的には何ら違和感はないが、非日本文化圏から見れば、必ずしもそうとは限らない。まず、日本では、魚に頭と尾が付いていると、なぜうれしい、(俗っぽい感覚ではあるが)得した気分になるのであろうか。それは、尾頭付の魚は歴史的に慶事の際に目にすることが多いからであろう。諸説あるようだが、神事における神饌(御供え物)の1つに(海・川の幸の象徴としての)魚があり、手を加えていない頭と尾を付けたまま供えた、ということが考えられる。(この点は、古来において生娘を人身供物[生贄]として神に捧げたという伝承にも通じるものがある)また、中国では、良い1年の始まりから終わりまでを意味して頭と尾が一体となった魚を食すのが春節(中国の旧正月に相当)の定番となっている。さらに、太極図として知られる図柄は、中国では陰陽魚と呼び、太陽の中に魚に見立てた陰と陽を表していると考えられている。この場合、尾から頭にむかって気が盛んになる様を表しているそうだ。つまり、尾と頭の付いた魚の一体が重要なのだ。このような尾と頭に、(平安な森羅万象の)始めや終わり、陰と陽、気の広がりなどを意味付けした中国からの慣習による影響も少なからずあったものと考えられる。その他、尾頭付きの魚と言えば、鯛が代表的と言えるが、必ずしも鯛である必要はなく、身が立派で、祝いの色とされる赤身の姿、語呂による「めでたい」等の理由により、高級魚であった鯛が、淡水魚の鯉と同様に、特別な魚として扱われ、その尾頭付きが最も祝いの席にふさわしい魚になったものと考えられる。商売繁盛の神として有名な七福神の恵比寿様も、その左手に(尾頭付の)鯛を抱えており、大漁の象徴となっている。なお、縄文時代の貝塚からもアサリ等の貝類のほかに、鯵や真鯛の骨が出土しており、古来から鯛が食されてきていることが分かっている。このように、日本では、八百万の神々への神饌であったという歴史や大陸の食文化の影響という点から、(手の付けられていない)尾頭付きの魚(特に鯛)が特別な、縁起の良いものとなっていると判断して良いであろう。
一方英語文化圏、特にアメリカでは、尾頭付きに相当する魚はwhole fishと呼ばれる。また、内臓を取り出し*、ウロコを落とした**だけで、尾頭ヒレ付の下処理済はdressed fishという。それに尾頭ヒレを落としたいわゆる切り身に相当するものがpan-dressedとなる。これは(アメリカでは)焼き魚を調理する際に用いるskillet pan用に下処理された、という意味であろう。 骨まで取り除き、買ってすぐに調理できる状態のもの[切り身]はfilletとなる。これは余談であるが、英語で尾頭の意のhead and/or tailには、コイントスなどの表と裏、天地などの意味があり、魚の向きに関しても左右よりも、上下に何らかの意味づけがあるかもしれない。例えば、日本で魚を釣り上げた場合、両手で頭と尾を横にして記念写真を撮ることが多いが、アメリカでは、エラのところに手を引っかけて片手で頭を上に持ちながらとるポーズをよく見かける。(これは魚の種類や大きさが関係しているか・・)このあたり、今後の調査対象としたい。■
*内臓を取り出すは、guttedと言う。gut(s)は内臓。
**ウロコを落とすは、scaledと言う。scaleはウロコ。
【お知らせ】研究ブログを移動しました!
本研究ブログの容量がいっぱになりましたので、新研究ブログを立ち上げました。 心機一転、研究ブログを再開したいと思います。引き続きどうぞよろしくお願いします。 新研究ブログは こちら
-
■茶会における主たる[最上位の]客のことを「正客」(しょうきゃく)と言い、その連れの客(正客と一緒にもてなし受ける客)のことを「相伴」(しょうばん)と呼び、正客の相手をつとめ、同様にもてなしを受ける、という意味としても用いる。 お茶席では、まず正客に(濃茶であれ、薄茶であれ...
-
■以前にも取り上げたが、千利休の教え[茶の心得]である利休百首におさめられているものに 「 稽古とは一より習ひ十を知り十よりかへるもとのその一 」 というのがある。これは、日々精進を重ね、一から十まで習ったとしても、またはじめての一に立ち返ることで、習得したことに...
-
■今日もさわやかな秋晴れが広がっている。とても気持ちがよいものである。この季節、茶の湯の世界では、「祥風」という銘をあてることがある。「祥」にはよころばしい(こと)、よろこばしいことの前ぶれ[兆し]、という意味がある。つまり、「祥風」とは、「よろこばしい(ことの)風」もしくは「...