2014年3月2日日曜日
魚の向き
■筆者が尊敬する方が公開するブログ上で魚の向きについて触れておられた。前回焼き物を含む懐石を取り上げたこともあり、筆者も気になった。確かに魚の向きは(当たり前のように)頭が左であるという感覚をもっている。茶懐石の焼き物であれば、魚の切り身であることが多いため、その根拠を見出すことは難しいが、現代のぜいたくな懐石[会席]料理であれば、(焼き物であれ、お造りであれ)尾頭付のものが出されることが多い。その場合、通例頭が左向きだ。筆者の意見としては、これには日本の「右利き文化」が影響しているものと考える。まず、料理人が魚を捌く際、包丁(通例右利き用)を右に持ち、左手で(可食部の少ない)頭を押さえるであろう。頭を落とす場合であっても、胸ビレの下あたりから包丁を挿しこみ力を入れて切り落とすため、右手であれば内側に力が入れやすいように左斜め下(頭の方)に向かって包丁を入れるのが自然だ。もし頭が右であれば、(主たる可食部である)腹や背を押さえ、右斜め下、つまり外側に包丁を(手首を内側に少しひねりながら)落とすことになるので、力が入りにくい。また、下処理としてウロコをとる作業もあるが、ウロコの付き方と逆にこすり落とすのにも内側(右利きであれば左の方へ)に包丁をこすっていく方が自然であろう。インターネット上で魚の捌き方を紹介する動画もあるが、大半が頭を左にしている。次に、右利き中心の筆文化を基本とする日本語圏では、右から左へ(上から下へ)と書きすすめる。その際、魚の絵を描く場合、気持ち的にも同じ方向に泳いでいく様が自然であろう。また、筆による筆記の場合、特に横線であれば(漢字の書き順と同様に)左から右に引くように書くのが自然で無理がない。一般に魚を描く場合の始点となる(であろう)口先から魚の線を描くのであれば、頭側が左にくることになる。(尾から頭にむかって筆を引いたり、尾を左にして、尾を始点にしたりすることは考えにくいと言える)江戸時代の絵師・歌川広重の錦絵でも、頭が左(やや斜め下)向きである。(こちら)実際、こうした影響を受けてか、釣り愛好家が釣り上げた魚を魚拓として残しておく場合も基本左向きである。最後に懐石料理とも関連するが、焼き魚を食べる際、可食部が大きく、旨みがあるのは頭寄りであり、右利き中心の箸の食文化が根付く日本では、左手で頭を押さえながら右手の箸で食すのが都合がよい。当然その場合も頭が左側にある方がよい。また、作法として魚を裏返しにすることはしないので、表側を食べ終わると、中骨を折り、尾に向かって骨をとり、身の上[奥]側に骨を置く。この場合も(空いている)左手で押さえるのに頭が左にあるほうが都合よい。
このように、大雑把ではあるが、料理人が捌きやすい、客が食べやすい、絵師が描きやすい、等々の理由により、日本文化的には、魚の向きは「かしら左」が最も自然である、と言ってよいであろう。確かに焼き魚の頭が右で出されたのであれば、筆者もかなりの違和感を覚えるであろう。昨年、「和食」が世界無形文化遺産に登録された。また、2020年夏季五輪の開催地として東京が選出された。否応なしに日本への世界的注目は集まっている。今回取り上げた魚の向きや尾頭付の魚がなぜ特別で、慶事的意味合いがあるのか、こうした日本人として何気ないことにも意識をもって日々の営みを大切にしていきたいものである。■
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