日本語では、しばしば「察する」、「配慮」、「気遣い」、「言わなくても分かるよね」、「空気を読め」といったことが求められることが多い。「口は災いのもと」であり、「目は口ほどにモノを言う」ように、あえて言葉にして「角を立てる」よりも、目やその他の雰囲気から自分の気持ちを伝えようとしたり、相手の意図を汲んだりしようとしたりする言語文化的特性が存在する。
上掲したような状況は、しばしば「以心伝心」という4字熟語で表現されることであろう。「以心伝心」とは、仏教用語の1つであり、禅宗の経典「六祖壇経」にある「法即以レ心伝レ心、皆令二自悟自解一」や、燈史[歴史書]である「景徳傳燈録」の中の「仏の滅する後、法を迦葉[釈迦の弟子の一人]に対し、心を以て心に伝う」の中にその教えが見てとれる。つまり、仏法の教え[神髄]を師から弟子へ伝える際のその様を表している。
こうした仏教の教えに加え、日本の生活形態も「以心伝心」の精神に影響を与えてきたと考えられる。(大くくりではあるが)欧米の移動型狩猟牧畜文化に対し、日本は定住型農耕稲作文化であり、人間関係よりも、周囲の環境[自然]との関係性の方が重要であったと推測される。四季が比較的明確に存在し、特定の人々と定住しながら[ムラ社会化]、協働で稲作に従事する生活においては、その多くが共有されていたことであろう。つまり、生活の糧としての「コメ」の収穫という絶対的な共通項[目標]があったわけである。そのためには、他者との(言葉による)無用ないざこざを避ける方が賢明であり、周囲の様子から学んだり、態度や行動で教え[伝え]たり、相手の顔色を窺がうことで、その気持ちを察したりするという、今で言うところの(日本的な)コミュニケーション力を発達させてきたのであろう。いわゆる文化人類学者Edward Hall氏が提唱した文化モデル「高コンテクスト文化」に分類されるということである。日本語文化圏のように、思想、信念、価値観、その総体としての文化の多くが共有されているような文化的環境を指して「高コンテクスト文化」とし、欧米諸国のような、言語に依存する割合が高いような文化的環境は「低コンテクスト文化」とされている。
こうした点が支持されるのであれば、日本的コミュニケーションに内包される多数の言語表現を文字通りに(辞書的な意味で)受け取ることはしばしば齟齬や誤解の要因になることが推察されよう。つまりのそうしたコミュニケーションと言語表現が発現している状況を適切に把握することが求められ、それに応じて内容を解釈する必要があるということだ。この場合、意味が不明瞭になりがちで、いわば分かりにくいということだ。(我が国の国会の答弁などはその一例とも言える)この点は、欧米の方々とのコミュニケーションで発生しがちな齟齬や誤解の要因と言えるであろう。先の通り、欧米のコミュニケーションは言語(と明確なボディランゲージのような非言語)に強く依存する傾向にある。それゆえ、用いられる言語(や非言語)が映し出す意味の<世界>は最大公約数的に共有されている価値や評価となる。つまり、明確で分かりやすいということだ。また、不要な間接的、補足的な意味が排除されるわけであり、ストレートな表現とも言える。例えば、帰国子女や留学経験者が帰国後の日本社会において、「はっきりモノを言う」、「ずけずけ言う」、「イエスかノーがはっきりしている」などと揶揄されるのは、こうした欧米型の低コンテクストなコミュニケーションスタイルに影響を受けているからであろう。
人文社会科学系、自然科学系を問わず、卒業研究や大学院研究等で内容分析を試みている学生諸君は、単に一部の先行研究に依拠した考察や、自己の経験(や時に直観)に頼るのではなく、分析対象となる社会的事象や物理的現象が言語によって再現されている環境を的確に捉え、それを加味した上で、そうした言語を取り巻く環境に影響されながら紡がれた言語のかたまり、すなわち、ディスコースとして内容分析を進めると、より実態に近似的な<世界>を見出すことができるであろう。さらに、分析対象が日本社会に関するものであっても、高コンテクストという日本語文化の特性を考慮し、低コンテクストな欧米諸国の言語、特に英語から分析対象を捉えることでその<世界>の輪郭がよりはっきりと浮かび上がることも期待できるであろう。こうした社会言語学的な日本語英語両面からのディスコース分析は、今後コミュニケーションの改善にむけたアンケート調査の内容分析などに有効な研究手法となろう。