2014年5月19日月曜日

日英言語文化小論(27)【知覚・認知・意識】(一)


■本ブログの主たるテーマである「言語と文化」の本質的理解をより深化させるために、生命科学の視点からも考察する必要があろう。そこで、言語と文化の獲得に係るヒトの基本的な構造について概観してみようと思う。(なお、本拙文は、今後の研究への備忘録的な意味も含まれる)
 まず、本ブログでは、外界をヒトの外部にある事象を、内界をヒトの内的事象[心象]とし、外界は他者と(近似に、又はある程度)共有可能であるが、内界は直接的には共有不可能とする。
 ヒトは日々の営みの中で、さまざまな外界からの刺激を情報として受容している。例えば、ヒトは、外界の刺激[情報]である光を(外)受容器である目で(感覚的に)知覚し、 角膜、水晶体、硝子体等を経て、網膜で結像し、(目の網膜で電気信号に変換され)視神経を通じて脳に伝達され、そこで外界を像として認知している、つまり「(モノが)見える」という状態になっている。我々はしばしばヒトが外界の像を見えるがままに受け止めている、と考えがちであるが、以上の点をふまえれば、受け入れているのはあくまでも刺激としての光であり、結像して、脳に伝達される像が、(ある意味)そのヒトだけに再現される像と言えるのだ。実際、我々は目の前の「実世界」(と呼ばれる事象)のあるがままを知覚し、認知しているわけではない。試しにカメラで撮影した像と比較してみるとよい。写真にはあるはずの像がない、ということがヒトにはおこりうるであろう。これは、より強い刺激(や変化)に対して注視[大きく反応]する(後述するが、「意識にのぼる」ということ)ことになるからであろう。当然いま見えているはずの「実世界」であっても、知覚し、認知できていない「実世界」の断片があるはずだ。それゆえ、ヒトの個体の数だけ、客観的な事実や事象、物理的現象としての「実世界」とは別に、「(実世界に)近似の世界」が存在しうるということになる。■


 

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