2012年11月29日木曜日

Body cleansing ≒ ボディクレンジング !?


■日本でも話題になった映画「プラダを着た悪魔」(原題:The Devil wears Prada)の主人公Andyを演じたAnne Hathaway氏が、ファッション誌Vogue12月号の表紙を飾ったことが一部報道された。一時期過食気味で、スタイルがかなり崩れたということであったが、同誌では見事な美貌とスタイルでご自身を表現されておられる。報道記事によると、氏はbody cleansingにより、体型を整えた(取り戻した)とのことであった。Body cleansingとは、body detoxificationとほぼ同義であり、ハーブエキス等を定期的に摂取することにより、体内の毒素[老廃物]を除去し、肝機能などの働きを改善することをねらいとするものである。毒素[老廃物]を排泄、浄化することにより、代謝機能も高まり、ダイエット効果が期待できるとのことである。
 一方、カタカナ表記のボディクレンジングを検索すると、ソープやボディシャンプーを後置要素として結びつき、肌をきれいにするための液体洗浄剤としての商品紹介が検索上位に登場する。特に、落ちにくい日焼け止めクリーム対応をウリにしているものが多い。
 こうしてみると、体内の洗浄、浄化を主眼とするbody cleansingに対し、体外、特に肌をキレイにすることを主に意味するボディクレンジングという、両者の違いが分かる。 これも日英言語文化の違いに起因するものと言えよう。
 ところで、筆者も英語文化のdietを継続中だが、開始から約3か月半が経過し、体重8キロ減、体脂肪率(変動が激しいので平均)4.5%減、体年齢(?)も、ついに実年齢マイナス7歳となった。筆者は特にdetoxificationのようなことはおこなってはいない。いわゆる英語文化的なdiet、すなわち、バランスのとれた(糖質控えめの)食事と、規則的なトレーニング(筋トレと有酸素運動)である。これまで無理なく継続できている。最近では、リンゴ酢と黒酢も積極的に取り入れることで、(トレーニングなどの)疲労軽減にも成果を感じている。とにかく、良い意味で、「痩せ」てきたと言える。パンツ[ズボン]類も拳1~2個分が入るようになり、腰をベルトで絞り込むため、こちらはデザインのシルエットが崩れるという意味で困っている。また、体重減にともない、膝や腰も軽くなり、日々の生活が楽になった。 ここでも、日英言語文化の違いがあるのだが、日本人同僚からは、「先生、最近“痩せ”ましたね」と言われることが多くなったが、英語圏文化の同僚からは"You look great"と声をかけられる。もちろん、顔つきやイントネーションにより、様々な意味が付加されることはあるが、単に“痩せ”ましたね、では、時に病的[不健康]な“痩せ”も想起させることになるであろう。いくらコンテクストに依存する日本語文化とは言え、もうひと言、ふた言、言葉を足すとより好意的なコミュニケーションになると思う。例えば、「最近痩せましたね。(体や顔つきが)締まってきましたよ」などである。とにかく、こうした点も、日本語文化、英語文化を比較対照させることで顕在化されてくる。(身近な)日々の営みにも興味深いことはまだまだありそうだ。

2012年11月25日日曜日

Turkey nap, Black Friday, and Cyber Monday


■今日で3連休も終わり、また明日から通常の勤務日が始まるが、アメリカでも今週末は木曜のThanksgiving day(感謝祭の祝日)から大学などはちょっとしたBreak(短期休暇)であったことであろう。そうした折、少し前に米国留学時の大学からalumni(卒業生の複数形;単数形はalumnus)宛ての電子メールが筆者のところにも届いた。その中に下記のような画像が貼り付けられていたので、ちょっと紹介しよう。これは、ThanksgivingのTo-Doリスト(やるべき用事の一覧)を題材にした大学への寄付宣伝用であり、日本では、正月用の買い物リストといったところであろうか。その中にある、"feast"というのは、「祝宴」という意味であり、一般にはThanksgiving dinnerを指す。その後の、"take a turkey nap"がおもしろい。日本でも、正月のおせち料理やお屠蘇をいただき、炬燵の中で、ついうたた寝、ということがあろうかと思うが、前掲したThanksgiving dinnerの食事のあとには、ついソファなどで寝てしまうということがどこのアメリカの家庭でも見られる。そこで、そのThanksgiving dinnerの主役とも言えるturkey(七面鳥;名前の由来はGuineafowl(ギニア産ホロホロチョウとの混同) )を食した後に眠くなる様子から、そう呼ばれているのであろう。そして、その次の"watch a parade"は、通例ニューヨーク・マンハッタンのダウンタウンを練り歩く老舗デパートMacy's主催のパレードのことである。このパレードのほか、college footballを見るというのも恒例である。
 そして、木曜のThanksgiving dayが終わると、"Black Friday"と呼ばれる、クリスマス前商戦が一斉に全米各地で始まるのだ。筆者も"Black Friday"に近くのmallに出かけたことがあったが、ひどい渋滞に巻き込まれ、散々な思いをしたことがある。日本人的感覚からすれば、セールはクリスマスまで継続されるわけであり、感謝祭翌日の金曜日だけに必ずしも目玉商品が出されるというわけでもない。それでもアメリカ人は皆一斉にspending spree(過剰に買い物すること)と化してしまうのだ。これはもう抽象的ではあるが、「文化」の一端としか言いようがないくらいである。(もっとも、アメリカ人が一斉に動き出すという点においてはある意味「秩序的」ではあるが、shopping mall内やその周辺の様はそうとは言えない・・・)
 そして、インターネット時代を反映するかのように、感謝祭明けの月曜からは、"Cyber Monday"と呼ばれるネット通販を中心としたセールが始まるのである。実際、米国Amazonや(アジアの隣国がアクセス制限をかけられたことで話題になった)Gapのサイトでは、"Cyber Monday Deals Start Today"(「サイバーマンデー」のオンラインセールが本日始まります)などの宣伝文句が昨日今日あたりから画面上に見られる。
 日本ももうすぐ師走に入り、慌ただしい雰囲気になってくるが、海の向こうのアメリカでは、そうした時期がひと足早く来たようだ。






http://g-ecx.images-amazon.com/images/G/01/img12/x-site/cyber-monday/h1-banners/cyber-monday-h1_470x40-2_up._V400510654_.jpg



研究論文とは




■「研究論文」には、我々を取り巻く<世界>の中で、研究者が関心のある特定領域(<世界>の一端)に対する問題提起とその解釈(の一部)について、仮説や推論、先行研究への批判的考察、数値的検証を加えながら客観的妥当性を示し、論理的整合性を維持しながら、独自の見解や今後の検討課題を導き出すという点が含まれるであろう。
 その場合、前掲した「自然科学分野」における論文であれば、研究者が接触する、すなわち経験する<世界>を主に数字や記号で表現したり、再現しようと試みたりすることが多い。そして、数値化や記号化された<世界>を分析考察結果に基づいて再現可能な状態として記録、保存、共有することで知の体系化の基盤として蓄積していくことになる。そして、後進の研究者が先行研究としてそれらの研究を参照しながら、新たな問題提起、解釈、発見をしていくきっかけとなる。こうした一連の学術活動が人類の<進化>の一端を担っていると考えられる。
 同様に、「人文(社会)科学分野」の論文であれば、上述の<世界>を言語で表現したり、再現しようとしたりすることが多い。また、言語は外の<世界>の代替表現[符号]としてだけではなく、人の内なる思考、認識、感覚等の外化として記録、保存、共有、すなわち、ある「実態[]」とそれに接触[経験]する人の認識や解釈等に関する「知識」としての「情報」の主体にもなりうる。もちろん、数字や記号も、ある自然現象に関する“科学的”に集約された「知識」の主体として用いられている限り、「情報」の一端と言える。しかしながら、<世界>の一部としての現象を解明する数値化や記号化の分析過程は通例複雑であり、「情報」の圧縮率も高いため、その再現は、人の日々の営みにおいては、容易ではない。それゆえ、日常生活における「知識」としての「情報」の共有と伝達、広義の「コミュニケーション」においては、「言語」を用いることの方が都合がよい、いわば合理的である、ということである。この点から、人の営みに関する事象や社会現象に対する接触、考察、認識、その結果としての知識化は、基本的に「言語」によって構成されることになる。そして、「人文(社会)科学」における研究論文において、「言語」が分析考察の主たる構成要素であるということは、分析対象となる<世界>の“切り出し”が、「知識」としての「情報」の圧縮率が高い数字や記号を駆使した「自然科学」におけるそれよりも、大きいということである。また、その“切り出し”方も一定とは限らない。したがって、先行研究の参照・批判や数値的検証等による客観的妥当性の確保と論理的整合性の維持が重要となってくる。さもなければ、(客観性に欠ける)主観的な見解もしくは、単なる独り言の類になってしまう。それはそれで、日記のようなものであれば問題はないが、「知の体系化の基盤」として蓄積され、人類の未来に活用されるために、こうしたことは肝要である。その意味で、研究者というものは、過去と未来を紡ぐ<世界>の伝承者としての一面も備えていると言えよう。■


2012年11月24日土曜日

日英言語文化小論(6)【自然科学と人文(社会)科学】




■前掲したように、「・・・しかしながら、先の様々な自然現象の科学的論証や実験に基づく合理的実証への着想が、(秩序付けられた)人類の日々の営みの中で醸成される感性によって養われるということであれば、「科学」は「文化」の一部という見方もできる。この点は、「科学」が自然界の現象の体系的解明を主とする「自然科学」と、人類や社会の事象や概念を論証する「人文科学(社会科学)」との二分化(三分化)されることと関連があると言える。」という点に触れたが、「科学と文化」という枠組みの中で、「自然科学」と「人文科学(社会科学含む、以下同じ)」との分類についてもう少し考えてみたい。
 通例「自然科学」との対比として「人文科学」と言う場合は、それは研究[分析]対象によるものである。ある自然現象(の実態[])に関して(研究者の“科学的直観”により立てた)仮説による推論を合理的に実証し、普遍的法則性(と時に新発見)の記録と保存により、再現性が認められるような解明とその体系化は、「自然科学」と言える。数字や記号、それらを用いた公式などは、対象となる自然現象(の実態[])の(人為的な)代替コード[符号]であり、現象の再現に用いられる法則性の記録と保存に必要となる。
 一方、個々の生活におけるある事象や社会現象、その総体としての文化()現象に関して、主に言語を代替コード[符号]として充てることで、様々な文化()現象を分析可能な状態にしていると考えられるが、その言語を媒介として、現行研究となる文化()現象に関する(経験に基づいた)解釈と、先行研究との論理的整合性の検証(と時に新発見)が中心となるのが「人文科学」と言える。例えば、過去の文化()現象に関する法則性、換言すれば社会規範、慣習、マナー等を、言語を用いて記録、保存し、再現性が現代においても維持されているのであれば、それは「伝統」ということになり、今後の解釈や検証の根拠となりうる。最近では、言語学、特に英語メディアに表出された社会現象を分析対象とする分野において、言語を数値化し、その分析対象言語と共起する語との結びつきとその変容等の数値解析から、客観的妥当性を加味することで、(主観的になりがちな研究者の)解釈の検証過程において論理的に破綻しないような試みがなされている。
 このように、自然現象の主たる代替コードとして数字や記号を、文化()現象の主たる代替コードとして言語を、それぞれ用いて諸現象の法則性、規範、慣習等(の実態[])を解明し、再現可能な状態になるよう記録・保存することが「科学」(の一端で)であり、「自然科学」であれ、「人文科学」であれ、“科学的”実証[検証]の結果が蓄積され、共有されることが「知識」であり、一般的知識体系の構築が(“自然”との対比から)豊かな人の営みの為に必要な秩序化となる「文化」と言えるであろう。
 もちろん、「真理の追究」としての「科学は科学」であり、「(人の)欲求の実現」としての「文化は文化」である。両者は、我々を取り巻く<世界>に関する、異なる独立した体系的知識およびその構築活動[作業]という一面も窺える。むしろ、現代においては、そうした主に「自然科学」の真理の追究を志す者を「科学者」とし、「文化」を含む「人文科学」の研究者を「科学者」と呼ぶことが控えられているように感じる。
 それでも、(自然との共生・共存から)人が実態[]との接触を通じて得た感覚や認識、すなわち経験に基づいて、人為的な数字や言語を用いて我々を取り巻く森羅万象の<世界>を数値的に説明したり、言語的に意味づけしたりするということにおいては、「科学」は「文化」的活動の一端であり、「文化」は「科学」的探究にも支えられている、と考えられよう。この問題については、まだまだ考察が必要だ。(・・・続く)

2012年11月19日月曜日

日英言語文化小論(5)【科学と文化】


■今年度のノーベル医学生理学賞に京都大学・山中伸弥氏が選出されたことは記憶に新しい。氏の受賞は、停滞(気味)中の経済界を尻目に、明るい話題を科学界に提供してくれた。さらに、その功績を称え、文化勲章も授与された。印象的であったのは、親授式後の氏の記者会見のコメントであった。氏は、「「科学者にとっては、ノーベル賞はとても光栄な賞かもしれないが、日本国民の一人としては、きょうこの日が一番光栄な瞬間」と述べられた。筆者のような稚拙な者が氏の心情を察するのもおこがましいことではあるが、世界的に注目されるノーベル賞よりも、日本人として天皇陛下から“勲章”をいただくことの方が(ずっと)意味のあることだ、ということであろう。日本人としての誇りを感じるひと言である。

さて、山中氏は、日本のみならず世界を代表する科学者であるが、科学者とは何か、という疑問が湧いてきた。一般的に科学者とは、「科学を研究[探究]する者」ということになろうが、それでは「科学」とは何か、ということを平易に考えてみたい。ちょっと大げさな話になってしまうが、人類は混とんとした自然と共存しながら進化してきたと言える。そして、混とんとした自然の<世界>における様々な現象を数値解析、客観的観察等により合理的に実証することが、「科学」の一面にあると考えられるであろう。特に「自然科学」を研究対象とする場合、合理的に実証し、論証することで、体系化、すなわち自然現象の普遍的な法則性というものを顕在化させることが研究目的の1つとなる。この点において、「自然科学」分野の研究は共有領域が広いため、世界的にも認知され易いと言える。
「自然」がありのままの<世界>であるのに対し、「自然」との共存・共生の中で、人類が(人類の本質として備える)進化のために社会を秩序付け、生活環境を整えた<世界>を「文化」と呼ぶことができよう。そして、「文化」は、ある不特定多数の集団がある事象に関する考えや価値観を、根拠となる「知識」とそれに関する「情報」によって共有することにより成立すると言える。そこで、「科学」の英語相当語となる”science”を考えてみると、”science”とは、”knowledge about the structure and behavior of the natural and physical world, based on facts that you can prove, for example by experiments…”(Oxford Advanced Learner’s Dictinary)とあり、語源的にもラテン語で”knowledge”を意味する” scientia”に由来する。つまり、人類を取り巻く自然界や物質界に関する(合理的に実証された法則性等の)「知識」が”science”の主成分であるならば、「知識」の解明[探究]および獲得と、その共有によって成立する「文化」は「科学」の一端ということになろう。しかしながら、先の様々な自然現象の科学的論証や実験に基づく合理的実証への着想が、(秩序付けられた)人類の日々の営みの中で醸成される感性によって養われるということであれば、「科学」は「文化」の一部という見方もできる。この点は、「科学」が自然界の現象の体系的解明を主とする「自然科学」と、人類や社会の事象や概念を論証する「人文科学(社会科学)」との二分化(三分化)されることと関連があると言える。例えば、味噌汁をつくる際に、煮干しで出汁をとると、「うまみ」がでておいしくなる、ということは(人文[社会]科学としての)「食文化」の一端であり、その知識を代々受け継いでいくことは「文化的継承」と言える。それに対し、「うまみ」の成分を実験により解明し、グルタミン酸、イノシン酸、グアニル酸等を抽出後、何パーセント何が含有されているとおいしくなるのかを実証することは、「自然科学」と考えられる。この意味において、「自然科学」には実験によって得られたデータに基づく再現性が発生することになる。(・・・続く)


2012年11月12日月曜日

真[深]の国際交流とは


■本日勤務先で顧問を務める茶道部も参加した学校茶道の合同茶会があった。その茶会に、勤務先の同僚教員が参加してくださった。氏は外国語が堪能で、日頃から国際交流等に尽力されておられる聡明なお人である。また、人格者であり、学生、教職員、保護者を問わず、周囲からの信頼も厚い。
 今回の合同茶会では二席しかまわることができなかったが、終了後、有意義な時間を過ごされたというご連絡をいただいた。氏曰く、表層的な所作のみならず、その背景にある(深層の)意味、概念、哲学等に強く魅せられたということであった。まさに同感である。そもそも筆者が茶の道を志した要因の一つが、点前の所作や道具の意味を通訳する際に、茶の道とその根底にある日本文化(の本質[源流])の理解なくしては的確な伝達はきわめて困難であると感じたからであった。この点は、氏が指摘するように、茶道と深層の日本文化に対する関心に通ずるものであった。
 もちろん、茶道は日本文化のすべてではないし、本流と断定することもできないであろう。それでも、茶道を介して伝承される“こころ”は、日本や日本人の“こころ”を映し出しているように強く思う。 これは、氏や今日参加された未来の伝承者としての学生がこうした“こころ”に共感し、茶の道に安らぎと喜びを感じ、心穏やかな時間と空間を体感しているということにほかならない。氏やこうした学生を見る限り、茶道を介した日本文化の伝承が、「アニメ[マンガ]」や「ゲーム」が海外メディアの注目を集める昨今、日本と諸外国との相互理解、すなわち、真[深]の国際交流の一助であり続けるということを、これからも期待してよいと思う。
 個人的には外国文化教育、とりわけ英米文化偏重の用例やトピックを配するテキストを使用した外国語教育とそれを根拠とする国際人の育成には否定的である。そはそれで、海外留学を検討している学生等には(それなりに)有用であろうが、それでも、留学先で日本(文化)と日本人について意見を求められることが必ずある。まずは、日本(文化)と日本人を十分に捉えた、いわば外国語による日本(文化)教育というものを日本語による教育と併用して実践するべきであると考える。諸外国と外国語を理解するためには、しっかりと母国である日本(文化)と母語である日本語を身に付け、日本人としてのアイデンティティを確立し、それを認識するべきであろう。自己が何者であるかも適切に理解し、説明できない者に対して、(諸外国の)他者は決して信頼しないであろうし、相互理解などというものはそれこそ不可能であろう。
 筆者の考える真の、深の国際交流とは、日本(文化)と日本人を理解した上で、諸外国との同質性や異質性に気を配りながら、歩み寄っていく、ということである。その意味で、日本(文化)と日本人の“こころ”の一端として茶道を介した日本(語)教育と、それをふまえた外国語および外国文化教育というのは効果的であると考える。今後は、茶道をきっかけに、書道、折り紙、武士道・・・まだまだ日本らしいモノやコトはある、日本人として、日本で生活する者として、日本をふまえた国際交流というものにぜひ取り組みたいと思う。■


2012年11月11日日曜日

ハレの舞台


■ハレの舞台の「ハレ」とは、通例「晴れ」であり、非日常のことを指すと考えられる。たとえば、祭事や儀礼的行為は「ハレ・晴れ」にあたる。つまり、「ハレの舞台」とは、非日常の(一生に一度あるかないような)特別な時間や機会を表す概念である。(「ハレ」の対称概念は日常的な「ケ(褻)」であり、いずれも柳田国男が唱えた日本的世界観の一つである)
  今日東京日野市にある高幡不動尊で学校茶道の合同茶会があった。顧問を務める勤務先の茶道部も参加させていただいた。ちょうど七五三の時期とあって、「ハレ姿」の親子も多くおられた。そうした中、勤務先茶道部の学生諸君にとっても、日頃の稽古の成果を、諸先生方に披露するまさに「ハレの舞台」であったと言えよう。茶の道の大先輩を前にして、時に優しく、時に鋭い視線が所作の一つ一つに注がれる中で点前を行うというのは、日頃のプレッシャーのない稽古、すなわち「ケ」の時間とは全く異質な、「ハレ」の時間であったことであろう。それでも、亭主や半東、お運びをしっかりとつとめ、しかも諸先生方からお褒めのお言葉までいただいたということは大変喜ばしいことであり、学生諸君の成長の証しである。それはもちろん、外部講師の裏千家教授K先生のご指導の賜物であるということは言うまでもない。
 また一年後、学校茶道の合同茶会が予定されている。亭主や半東役の担当学生は交代していくことになろうが、本年度とは違った成長の姿を楽しみに、これからも稽古に励み、日々精進していきたいと思う。 ■
 

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