先週につづき、またテレビで映画を見た。おそらく、多くの方がリラックスする時間帯を想定しての放送設定なのかもしれない。筆者もちょうどその時間帯にあたることが多い。
今回は日本経済も華やかだった頃の、1980年代後半のアメリカ・ニューヨーク金融界が舞台となる社会[経済]派映画である【ウォール街】(原題Wall Street)だ。当時企業の合併・買収(M&A)をキーワードに、大物(機関)投資家の動向や、それにともなうインサイダー取引などの事件が、日夜メディアを賑わしていた時代である。
映画の中で、マイケル・ダグラス演じる投資家Gordon Gekko氏が筆頭株主として製紙会社での株主総会で次のように発言している。
“Now, in the days of the free market, when our country
was a top industrial power, there was accountability to the stockholder. The
Carnegies, the Mellons, the men that built this great industrial empire, made
sure of it because it was their money at stake. Today, management has no stake
in the company!”
「・・・では、我が国が世界一の産業力を誇った自由主義(経済)が全盛であった頃、株主に対する(企業側の)(確固たる)責任というものがありました。かのカーネギー家[財閥]、メロン家[財閥]、その他我が国を一大産業(帝)国にまで築き上げてくれた方々は、しっかりとその責任を果たしました。なぜならば、自身の(資)金を(ほとんど)投じていたからです。今ではどうでしょう、我が社の経営陣はまったく(と言っていいほど)自身の金を投じておりません・・・」
拙訳ではあるが、このような意味内容であろう。ここで、accountabilityについて少し考えてみたい。形式的ではあるが、株主総会を開き、赤字を計上した理由やその額を株主に対して(たとえ不十分であったとしても)“説明”している、という点においては、“説明責任”を果たしていると言えなくもないであろう。(前回も取り上げたように、accountabilityは「説明責任」という日本語訳があてられることが多い)
Gekko氏は、その発言の中で、19世紀後半から20世紀初頭にかけて大繁栄をきわめたアメリカ経済と当時の経済を比較して、accountabilityをキーワードに経営陣を真っ向から批判している。注目すべき点として、カーネギーやメロンなどは身銭をきって企業経営に奔走したが、問題の製紙会社の経営陣は自社にほとんど投資をしていないということである。そこで、前回のaccountabilityの解釈を取り上げながら、Gekko氏の言わんとするaccountabilityの意味を考えてみると、(アメリカ繁栄期は)「整然と(株主に)釈明[説明]できるような正当なおこない(つまり、身銭をきった投資)」がなされていたという、「釈明[説明]」よりも「おこない」を重視した含みがあると考えられる。つまり、(製紙会社の経営陣が)「正当な釈明[説明]」ができないのは、「正当なおこない」がなされていないからということであろう。
このように考察してみると、accountabilityには、自己のおこないの正当性を整然と釈明[説明]するという”責任”に対してだけではなく、(そうした責任をふまえた)正当性のある「おこない」そのものに主眼をおいた”責任”に対しても用いられることがあると言えるのではなかろうか。この意味解釈において、Gordon Gekko的accountabilityは、言動やおこないに対する”実質的責任”を意味するresponsibilityにきわめて近いものと考えられるであろう。このように捉えると、accountabilityを、(事前であれ、事後であれ)説明することに主眼を置いた印象をもつ「説明責任」とすることには幾分違和感を覚えてしまう。
■追記
Gekko氏が発言の中で、現経営陣に対してはno accountabilityではなく、no stake(賭け→投資)を用いているところを考えると、形式的な上っ面だけ[口先だけ]のaccountabilityを揶揄しているともとれる。