2012年3月25日日曜日

メディア研究


 
 先日の研究会における発表は、震災報道に関して主要英語文化圏メディアがどのように報道し、その報道テキストに投影される日本と日本人のイメージの一端がどのようなものであるかを明らかにしようとしたものであった。ちょうど研究会参加へお声をかけていただい頃に執筆中であったものを、体裁を整え、論文形式の資料として配布した。本来ならばこうした研究発表を先に行い、質疑応答を通して得られたコメント等を反映しながら論文としてまとめていくのが理想的ではある。その意味で、過程が前後したということもあり、今回の論文はさらなる分析考察を前提とした「研究ノート」とするのが適切であろう。実際、数々のご意見を頂戴し、問題点や加筆修正の方向性が確認できた。やはり、研究発表の機会は論文作成には重要であることを再確認した。
 今回の分析手法とねらいは次の通りである。まず、世界じゅうの至る所で起こっている様々な事件、事故、(自然・社会)現象等を個人が知ることはきわめて困難であり、不可能であると言ってよい。そうした世界じゅうの事象と個人との橋渡し[中間]として、(ある実態を)情報として伝達するのがテレビや新聞などに代表される報道メディアと考える。(201158日「クロスメディア」の項を参照)そして、報道メディアは、情報を伝達な可能なカタチとして言語[テキスト]化したり、音声映像化したりするのだ。言い換えれば、報道メディアは、ある事象の実態を言語[テキスト]などによって分節化しているのだ。そして、分節化された情報の受け手である個人[読者・視聴者]は、それを個人の主観、経験等に基づいて分節化された情報の(未知なる)世界を、時に想像も駆使しながら、再構築し、認識していくことになる。ここで問題が2つがある。まず1つは、事象の実態を(生で)体験した報道メディアが目の当たりにした世界を分節化[情報化→言語化]する過程である。通例言語化することになるわけだが、そこにはしばしば記者や編集者の(主観的な)思想、信念、価値観、時に政治的・宗教的圧力、偏見等が加味されることがある。もう1つは、そうした言語情報を入手した個人が対象となる世界の再構築の過程である。言語情報の再構築も、個人の思想、信念、価値観、経験等に依存することになる。これは、メディア・リテラシーとも言われ、情報を的確に理解認識する能力とされている。つまり、しっかりとしたメディア・リテラシーを有する方であれば、仮に伝達された言語情報に不適切な内容(例えば、扇情的な政治的価値観)が含まれていたとしても、それを排除し、的確に情報を捉え、対象世界を再構築できる。そうでなければ、事実とは異なる世界が構築されてしまうことになる。事実、それを意図して不特定多数の個人を誘導するように巧みに操作された情報もある。特に政情不安定な国から発信される情報には注意が必要だ。
 ある事象の実態が織り成す世界は、(言語)情報としていかようにも分節化が可能である。そこで、ある事象の実態に関連する(その世界を分節化した)言語情報を集積し、データベース[コーパス]化することは、言語による(対象となる事象の)(仮想)世界の一端を表しているものと考えられるであろう。
 筆者の考える「メディア研究」とは、こうしたある特定の事象に関するコーパス(分析対象コーパス)と、不特定の事象をできる限り集めた、より大きく、より普遍的なコーパス(参照コーパス)とを比較検証し、前者の分析対象となるコーパスからその事象に特徴的な語や表現を統計処理を施しながら客観的に抽出し、主観的な考察を極力排除した上で、特徴語に関連する用例分析の過程で研究者の知見を活かす、というものである。
 今回の研究発表では、主要英語文化圏(英米加豪)のメディアが報じた東日本大震災関連記事をコーパス化し、参照コーパス(現代英語の百万語レベルの集積体であるFROWNおよびFLOB)と比較しながら特徴語を抽出し、それに基づいて対日イメージに関する評価対象語を選定した。次に、評価対象語と共起している評価語を調査し、客観的且つ一般的な評価であるgood, nice, beautifulなどを一次的評価語として排除し、イメージや印象の構築に影響のある情緒的な表現を二次的評価語として最終的な用例分析対象とした。(223日「impression」「impression2」を参照)
 そして、用例分析の過程で、評価対象語と評価語を中心に前後のコンテクストを適宜参照しながら、肯定的、否定的、不明の3種類に分類した。最後に、震災報道コーパスの考察結果と外務省の海外世論調査とを比較考察し、対日イメージに関するある一定の整合性を見ることができた。
 発表後の質疑応答で印象的であった質問が、筆者が否定的と判断した評価語の”courtesy”に関するものであった。質問者の研究者は、(おそらく辞書的意味ということであろう)courtesyは肯定的ニュアンスがあり、今回の評価自体、研究者(筆者)の主観によるものではないであろうか、というものであった。確かに肯定・否定の最終的な分類には研究者の知見がどうしても必要になるということは上述した通りである。それゆえ、そこまでの過程にできる限りの客観性を持たせる意味(フィルタリング)で、コーパス分析を取り入れているという内容の回答をさせていただいた。実際、すべての語や表現のの辞書的な意味が普遍的というわけではなく、コンテクストの応じてしばしば異なる意味やニュアンスが醸成されることがある。(拙著「100語で学ぶ英語のこころ」を参照)
 もちろん今回のcourtesyを“何となく”否定的評価語としたわけではない。下記用例に見られるように、courtesyの前後に共起する語を確認していただきたい。

courtesy
The Japanese are sticklers for courtesy.  So many people living in close quarters have little choice but to be nice to one another…..Community spirit: This is the big one. Some might say it’s a hyper-organized, anti-individualistic, perhaps even repressive society.  
(Toronto Sun  March 19, 2011)

下線部の表現を見ていただければ、日本人は「礼儀にうるさく」、日本社会とその根幹を成す共同体意識は、「過度に組織化」され、(個を重視する英語文化圏と対比して)「反個人主義的」であり、(それゆえ)「抑圧的」であるという評価と言える。辞書的なcourtesyは肯定的であっても、この用例内では、(特に災害時には)(日本的)courtesyは、むしろ制約や障害になりうると読み取れるであろう。これらを根拠にして、筆者は震災報道における日本的courtesyは否定的評価がなされていると判断した。
 それでも、質問者が疑義を唱えるのももっともなことである。発表内容や配布資料では、このような説明が不十分であった。これは他の評価語にも言えることであろう。これらの評価語を含む用例分析こそが筆者の考える「メディア研究」の肝とも言える部分である。さらなる工夫の必要性を指摘していただことに感謝したい。
 1つの方策としては、学会誌掲載論文である「言語と文化の不可分性に関する研究―大学新聞におけるcommitmentの様相―」で用いた特定語のみを分析対象として、その意味成分を抽出し意味的類型化を試みる、ということが考えられる。(今回は「対日イメージ」という大きな括りであった)この手法を用いることで、先のcourtesyの評価分析もさらなる客観性を持たせることが可能になろう。ただ、筆者の文才の欠如もあって、これらの分析手法を紙面の制約のある1つの論文にまとめることは(弱気ではあるが)難しいように感じる・・・(本ブログだけでも、すでに原稿用紙7,8枚相当分は費やしてしまっている)

2012年3月24日土曜日

しあわせのカタチ

 先日、国内主要メディアの1つを母体とする研究会に参加させていただいた。日頃“同業者”である研究者であり、大学教員でもある方々を中心とする学会では、お互い“研究の懐具合”を知る者同士ということもあってか、痛い所を突くような批判的な質問や意見等は避けることが多い。実際、研究テーマの設定、研究手法、分析考察資料やデータ、考察結果等がある程度整っていれば、それほど批判の矢面に立つようなことはほとんどない(と言ってよい)。稀に、重箱の隅をつつくような、些細な不備を指摘したり、意図的に困らせるだけとしか思えないような質問を投げかけたりする方もいる。総体的に、学会の雰囲気にもよるが、教育機関以外の(民間の)研究会と比較すると、学会のそれは、比較的緩いように感じる。しかも、何度か足を運び、顔なじみになればなるほど、批判的な意見等は、今後の“報復”を回避するためにも、遠慮するであろう。
 今回参加させていただいた研究会は、まさに学会外のメディア研究の専門家集団が中心をなす集まりであった。(文部科学省的表現とも言える)“エフォート”6~7教育、3~4研究(実際のところは関係者の目があるので控えることにする)が多くを占める教育研究者の研究とは、動機づけに何らかの差があるものと思われる。そうした中、筆者のメディア研究分析の一端を紹介させていただいた。もちろん、批判や指摘は覚悟の上であった。ただ、このような研究会であれば、通例批判や指摘というものは忌憚のない意見であり、今後のさらなる研究の発展に必要な建設的な情報や参考資料となりえるのだ。その意味で、大変有意義な時間であった。また、大いなる学術的刺激となって体内[脳内]に入り込んでくるのを体感することができた。
 今回この研究会への参加についてお声をかけてくださった方は、筆者の所属学会の大先輩であり、非常勤講師としてもお世話なった教授(現在は名誉教授)であり、その道の(俗っぽい言い方ではあるが)プロ中のプロである。そうした方とのお付き合いは大変貴重であり、これからも大切にしていきたいと願う。このような人との関係も、(しばしば抽象的な)“しあわせ”というものの1つのカタチであろう。ありがたいことである。。。

2012年3月20日火曜日

スマホ


最近では、どこでもスマートフォン[スマホ]を見かけるようになった。ちょっとしたバブル状態といってもいいくらいだ。学生のみならず、学生の保護者世代ですら、標準的な手帳サイズの液晶画面上をflickしている。筆者は、まだ老眼メガネの世話になるほどではないが、あのサイズ程度の液晶画面内に表示されるウェブサイトを閲覧することに心地よさは感じない。情報収集目的の閲覧であればタブレットサイズ(7~10インチ)は欲しいところだ。スマホサイズはメール確認とちょっとした検索程度が適正かと思う。
もっとも、この手の話題は個人差が大きく、かなりライフスタイルや価値観等に左右される。それを踏まえて話を続ければ、簡単なネット検索であれば前回取り上げた従来の゛ケータイ゛で十分対応できるだろう。しかも、通話やメール中心であれば、なおさらだ。一部のハイエンドユーザーを除いて、多くのスマホユーザーはその機能を十分に活用するというよりも、スマホを所有する喜びを優先しているように見える。特に若年層で顕著のように感じる。確かに周囲の友人が持っていれば、自分も持ちたいという心理はわからなくもない。
そもそも、ケータイが独自のネットワーク(ドコモ社のiモードネットワーク等)の活用に必要な大抵のアプリ(application software)がプリインストールされているのに対し、スマホは自分の好みに応じてアプリをインストールしていく必要がある。つまり、自分でカスタマイズすることができる[しなくてはならない]のだ。したがって、それなりの知識は求められる。とはいえ、情報工学的な専門知識が必要というわけでもないようだ。日頃から(抽象的ではあるが)そこそこパソコンを扱っていれば、対応可能であろう。
パソコンに苦手意識がなく、積極的に自分の情報ネットワーク環境を構築していこうという意欲があり、手帳サイズ画面のネット閲覧が苦痛でないのであれば、スマホ利用は有効と考えられる。もし、通話とメールが中心で、また、簡単なネット検索で不満がないという方であれば、従来の"ケータイ"でも十二分に高度情報化社会との橋渡し、つまり情報通信メディアとして機能すると言えるであろう。実際、スマホは標準的な料金プランがケータイに比べ割高(平均1500円程度の差額)だ。特に外回りの営業職のような方や一部のネット依存症的ユーザーでなければ、上述したように、通話、メール、簡単なネット検索は定額プランのケータイで、地図や本格ネット検索はゆったり画面のタブレット端末を無線LAN接続で活用するのがお財布にもやさしいであろう。もちろん、本格的な資料作成、調査研究、(静止画・動画含む)編集作業には通常のパソコンを利用するという前提だ。
重複するようだが、モノの価値というものはそれを評価する方によって決定されるという一面がある。たとえ、割高な料金プランであっても、画面が小さく感じても、片手でのflick操作が容易でなくても、コンピュータ操作に自信がなくても、時代の潮流の代名詞的存在である゛スマホ゛を持ちたいという気持ちも、1つの価値観であり、スマホを利用する理由と言えるであろう。

2012年3月15日木曜日

“ケータイ”


3月、4月は人生の節目となる方が多いことであろう。卒業、入学、転勤、入社等々。。。そうした際に、身の回りのものを一新することがよくある。その1つに携帯電話が挙げられるよう。ここ数年、急速に日本の携帯電話、いわゆる“ケータイ”事情が変容してきている。かのアップル社のiPhoneの登場を機に、スマートフォン(スマホ)市場は拡大の一途をたどっている。筆者の周囲でも(あくまでも個人的印象ではあるが)7,8割はスマホユーザーのように感じる。もっとも、実際はその逆で、スマホユーザは3割、残り7割が従来型の“ケータイ”電話である。(それも、2014年度末には逆転され、過半数がスマホユーザーになるとの予測があるようだ)
ところで、話題のスマホは英語の"Smart Phone"をそのままカタカナ表記した”スマートフォン”を崩した表現と言える。スマホは、(簡易的)情報処理能力を持ち、且つ通信通話機能を備えた小型情報通信機器であり、高機能携帯電話である。ちょっとしたデータ処理等であれば、スマホでさっと対応できるのが魅力だ。しかも、アプリ[Application]と呼ばれるさまざまなソフトウェアをインストールすることで、個人のニーズにあった機能を拡張できるのも特長的だ。
一方、従来型の”ケータイ”電話は、通話とメールの送受信が主である。それでも、スマホの急速な普及にともない、スマホに準ずる機能を組み込んださまざまな機種が登場してきている。そうした従来型ではあるが、多機能型”ケータイ”電話のことを"Feature Phone"と呼び、カタカタ表記で”フィーチャーフォン[ホン]”とされることが多い。実際、無線LAN機能を備え、タッチパネルに対応したスマホ相当の機種もある。Featureとは英語で「特徴;特色」といった意味であり、スマホに準ずる機能はあくまでも(通話やメールを主とする)”ケータイ”電話の特徴であり、特色であるという意味が含まれているのであろう。
こうした点から見ると、スマホの情報処理機能は、もはや通信機能と同等の扱いであり、そうした情報処理機能がFeature扱いである従来の”ケータイ”電話とは、一線を画すものと言えよう。
なお、一部では従来の”ケータイ”電話をガラパゴス諸島の生物にたとえ、”ガラパゴスケータイ”(俗称ガラケー)と揶揄している。これは先の多機能性がきわめて日本的であり、世界基準からはずれていることに由来するのであろう。事実日本の”ケータイ”電話の多機能性は、国際的見地からすれば孤立感は否めない。それでも、そのまま英語をあてて"Galapagos Cell [Mobile] Phone"*としたところでは、意味が分かり難いであろう。"Feature"するような機能を有しないシンプルな従来型の"ケータイ"電話であれば、現時点において「普通の;標準の」を意味する"Regular Cell [Mobile] Phone"**でよかろう。"Conventional Cell [Mobile] Phone"という表現もみられるが、前者の方がより平易明解に感じる。もっとも、いずれスマホが"Regular Phone"になる時代もそう遠くはないのかもしれない。。。


*一部の英語文化圏メディアは、日本的英語としてGalapagos Phoneを紹介している。
[http://blogs.wsj.com/japanrealtime/2010/06/11/113-not-in-japans-galapagos-phone-market/]
**"Regular Phone"は携帯電話に対して固定電話を指すことがある。現在の通信環境では、まだCell[Mobile]を明記する必要があろう。

2012年3月8日木曜日

日英言語文化小論(1)【上座】


最近テレビや各種イベント等で日本文化の一端を紹介しているものが増えたように感じる。欧米的生活スタイルや価値観などが広く浸透している現代社会において、大変興味深い傾向と言える。ところで、日本人として日本に生まれ育ち、日本語母語話者であったとしても、日本文化の本質的な意味や他国文化との差異を十分理解できていない人が多い。(かくいう筆者もその一人であろう)

実際日本文化は他国文化と比較して、特異性が強いように感じる。そうした(言語)文化の1つが今回取り上げる「上座」であろう。日本文化において、「上座」とは目上の人や社会的地位の高い人が座る席位置を指すことが多い。現代社会では、通例出入口から遠い、窓の近くや南面する部屋の一番奥がそこにあたる。また、一般家屋であれば、床の間の近くがそうである。さらに、総合伝統文化芸能と言われる茶の湯の世界では、床の間近くの(を背にして)客口(出入り口)から一番奥が正客のお席となる。それでは、何をもって「上」の「座」になるのか考えみたい。

かつて京に都があった平安時代、平安京は南に面して建立されており、必然的に天皇は南向きに北側に鎮座した。そこが(最上位の)玉座[上座]である。そして、天皇の玉座から見て太陽の昇ってくる東側、つまり天皇の左手が(玉座の次の)上座、右手側が下座になったとする説がある。日本史に興味のある方であれば周知のことだが、右大臣よりも左大臣の方が位が高いのは、こうした説が有力である。現代でも北を上に京都駅周辺の地図を見た場合、右側(東)が左京区、左側(西)が右京区となっている。これは当時の京が中国大陸の影響を受けており、「天子南面す」の論語、山の南側を「陽」とする陰陽五行の影響などがあったものと思われる。それらに加え、太陽信仰の影響もあってか、南に面する北側の席位置が実質的な上座ということなのであろう。

(掘り下げればもっともっと奥が深い内容のものではあるが)上座の背景をこのように考えれば、日本文化の一端としての上座が(一部の和英辞典で)"upper[top] seat""the top[head] of the table"とするだけは、不十分な印象を感じてしまう。せめて、"seat of honor""seat of high rank"あたりを補足的に説明したいものだ。日本文化の太陽信仰や南面思想あたりまで説明できるとさらに良いであろう。

2012年3月5日月曜日

Gordon Gekko的accountability


 
 先週につづき、またテレビで映画を見た。おそらく、多くの方がリラックスする時間帯を想定しての放送設定なのかもしれない。筆者もちょうどその時間帯にあたることが多い。
 今回は日本経済も華やかだった頃の、1980年代後半のアメリカ・ニューヨーク金融界が舞台となる社会[経済]派映画である【ウォール街】(原題Wall Street)だ。当時企業の合併・買収(M&A)をキーワードに、大物(機関)投資家の動向や、それにともなうインサイダー取引などの事件が、日夜メディアを賑わしていた時代である。
 映画の中で、マイケル・ダグラス演じる投資家Gordon Gekko氏が筆頭株主として製紙会社での株主総会で次のように発言している。

“Now, in the days of the free market, when our country was a top industrial power, there was accountability to the stockholder. The Carnegies, the Mellons, the men that built this great industrial empire, made sure of it because it was their money at stake. Today, management has no stake in the company!”

「・・・では、我が国が世界一の産業力を誇った自由主義(経済)が全盛であった頃、株主に対する(企業側の)(確固たる)責任というものがありました。かのカーネギー家[財閥]、メロン家[財閥]、その他我が国を一大産業()国にまで築き上げてくれた方々は、しっかりとその責任を果たしました。なぜならば、自身の()金を(ほとんど)投じていたからです。今ではどうでしょう、我が社の経営陣はまったく(と言っていいほど)自身の金を投じておりません・・・」

拙訳ではあるが、このような意味内容であろう。ここで、accountabilityについて少し考えてみたい。形式的ではあるが、株主総会を開き、赤字を計上した理由やその額を株主に対して(たとえ不十分であったとしても)“説明”している、という点においては、“説明責任”を果たしていると言えなくもないであろう。(前回も取り上げたように、accountabilityは「説明責任」という日本語訳があてられることが多い)
Gekko氏は、その発言の中で、19世紀後半から20世紀初頭にかけて大繁栄をきわめたアメリカ経済と当時の経済を比較して、accountabilityをキーワードに経営陣を真っ向から批判している。注目すべき点として、カーネギーやメロンなどは身銭をきって企業経営に奔走したが、問題の製紙会社の経営陣は自社にほとんど投資をしていないということである。そこで、前回のaccountabilityの解釈を取り上げながら、Gekko氏の言わんとするaccountabilityの意味を考えてみると、(アメリカ繁栄期は)「整然と(株主に)釈明[説明]できるような正当なおこない(つまり、身銭をきった投資)」がなされていたという、「釈明[説明]」よりも「おこない」を重視した含みがあると考えられる。つまり、(製紙会社の経営陣が)「正当な釈明[説明]」ができないのは、「正当なおこない」がなされていないからということであろう。
このように考察してみると、accountabilityには、自己のおこないの正当性を整然と釈明[説明]するという責任に対してだけではなく、(そうした責任をふまえた)正当性のある「おこない」そのものに主眼をおいた責任に対しても用いられることがあると言えるのではなかろうか。この意味解釈において、Gordon Gekkoaccountabilityは、言動やおこないに対する実質的責任を意味するresponsibilityにきわめて近いものと考えられるであろう。このように捉えると、accountabilityを、(事前であれ、事後であれ)説明することに主眼を置いた印象をもつ「説明責任」とすることには幾分違和感を覚えてしまう。

■追記
 Gekko氏が発言の中で、現経営陣に対してはno accountabilityではなく、no stake(賭け→投資)を用いているところを考えると、形式的な上っ面だけ[口先だけ]accountabilityを揶揄しているともとれる。

2012年3月1日木曜日

恋愛小説家的accountability

先日映画館に足を運んで見たわけではないが、テレビでは放映のたびについ見てしまう映画の1つである「恋愛小説家」(原題As Good As It Gets)を見た。ひとくせも、ふたくせもある、売れっ子小説家(ジャック・ニコルソン)が、行きつけのカフェの給仕(ヘレン・ハント)との恋愛を成就させるという、想像に難くない内容のものである。その中で、興味深いセリフがあった。ファンらしき女性が主人公の小説家に、どうして小説の中で女性の気持ちを的確に理解できるのか、という質問をした際に、彼は次のように答えている。
“I think of a man and take away reason and accountability.”
「まず男性について考え、それから理性と責任を取り除くことだ」
こんな感じの意味であろう。本映画の設定上、主人公はかなり偏屈な中年男性であるので、女性に対しても相当な偏見をもっているということをふまえての一節と言える。これをまともに公言すれば、いたるところから(特に女性保護団体等)叩かれるのは明白である。
ここで話題にしたいのは、accountability=責任(?)ということである。インターネット上で、accountabilityresponsibility、違い、などで検索すると結構な件数が表示される。多くの方が両者の差異に学問的関心があるのだろう。その両者の違いについて、responsibilityが単に「責任」であるのに対し、accountabilityは「説明責任」という意味があてられることが多い。この点について、『アンカーコズミカ英和辞典』(学習研究社)のそれぞれの項の解説が詳しいので部分的に引用してみたい。
responsibility
responsibilityとは人として規範に沿って道徳的に行動することをいう。・・・一方、英語圏の人々の場合には、集団内部においても、何よりも自分の責任範囲を明確にし、その責任や任務を果たそうという意識が強く働くのが普通である。・・・”
accountability
“・・・責任を十分果たさなかった場合、きびしい報い[]を受けることも意味する重いことばである。これはキリスト教でいう、give an account before God(神の前で申し開きをする;最後の審判の日に、現世でどう生きてきたかを説明してそれに応じた神の審判を受ける)につながっている。”
また、『スーパーアンカー和英辞典』第2版(学習研究社)の「責任」の項では、
【せきにん;責任】
“・・・accountability(自分の言動について釈明し正当化すること)・・・”
とある。こうした点を参考にresponsibilityaccountabilityとの差異について考えてみると、ざっと次のようになるであろう。一般的に、社会や周囲との関係性の中で発生する言動について果たすべき務めがあるような場合がresponsibilityであり、社会(文化)的規範に沿って道徳的に行動することが求められていると言える。一方、(Godとのタテ関係の中で)(必然的に)備わっている(べき)(人としての)基本的本質の1つがaccountabilityであり、自己のおこないの正当性を整然と(社会、そしてGodに)釈明[説明]することが求められていると考えられよう。したがって、responsibilityとしての責任には、ある言動に対する果たすべき務めの範囲が明確にされ、時に他者に移動可能な流動性があるのに対し、accountabilityとしての責任は自己のおこないに対して本来的に負っている、他者に移動できない特異性があると言える。(前者を内的、後者を外的と分類する見方もあるようだが、個人的には馴染まない考えである)
これをふまえて、上掲した映画のフレーズを再考すると、“I think of a man and take away reason and accountability.”「まず男性について考え、それから理性と責任を取り除くことだ」ということは、「男性には理性(reason)と責任(accountability)が備わっており、(すぐに)感情的にはならず、筋道を立てて冷静に物事を考え、判断する論理的思考に優れ、それゆえ、(自己のおこないの正当性を(Godの前であっても)整然と釈明するという)(責任)能力を有しているが、女性にはそれらが欠けている、、、という女性を揶揄した(英語文化圏的)意味内容と捉えられなくもない。このような解釈を試みると、批判のほこ先が筆者に向かってくることが危惧されるが、これはあくまでも映画の主人公で、misanthrope(人間[大衆]嫌い)なMelvin Udall氏の視点から考察しているということをお忘れなきように・・・。

*もっと真剣にresponsibilityaccountabilityの差異を考えてみたい方にとっては、アカウンタビリティーをキーワードに、責任概念について法哲学的アプローチを試みた下記研究論文は大いに参考になるであろう。
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/metadb/up/LIBOSIPPK/26-01_n.pdf
**「お忘れなきように」の用法については、こちらを参照されたい。http://blog.livedoor.jp/yamakatsuei/archives/51762983.html


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