先日の研究会における発表は、震災報道に関して主要英語文化圏メディアがどのように報道し、その報道テキストに投影される日本と日本人のイメージの一端がどのようなものであるかを明らかにしようとしたものであった。ちょうど研究会参加へお声をかけていただい頃に執筆中であったものを、体裁を整え、論文形式の資料として配布した。本来ならばこうした研究発表を先に行い、質疑応答を通して得られたコメント等を反映しながら論文としてまとめていくのが理想的ではある。その意味で、過程が前後したということもあり、今回の論文はさらなる分析考察を前提とした「研究ノート」とするのが適切であろう。実際、数々のご意見を頂戴し、問題点や加筆修正の方向性が確認できた。やはり、研究発表の機会は論文作成には重要であることを再確認した。
今回の分析手法とねらいは次の通りである。まず、世界じゅうの至る所で起こっている様々な事件、事故、(自然・社会)現象等を個人が知ることはきわめて困難であり、不可能であると言ってよい。そうした世界じゅうの事象と個人との橋渡し[中間]として、(ある実態を)情報として伝達するのがテレビや新聞などに代表される報道メディアと考える。(2011年5月8日「クロスメディア」の項を参照)そして、報道メディアは、情報を伝達な可能なカタチとして言語[テキスト]化したり、音声映像化したりするのだ。言い換えれば、報道メディアは、ある事象の実態を言語[テキスト]などによって分節化しているのだ。そして、分節化された情報の受け手である個人[読者・視聴者]は、それを個人の主観、経験等に基づいて分節化された情報の(未知なる)世界を、時に想像も駆使しながら、再構築し、認識していくことになる。ここで問題が2つがある。まず1つは、事象の実態を(生で)体験した報道メディアが目の当たりにした世界を分節化[情報化→言語化]する過程である。通例言語化することになるわけだが、そこにはしばしば記者や編集者の(主観的な)思想、信念、価値観、時に政治的・宗教的圧力、偏見等が加味されることがある。もう1つは、そうした言語情報を入手した個人が対象となる世界の再構築の過程である。言語情報の再構築も、個人の思想、信念、価値観、経験等に依存することになる。これは、メディア・リテラシーとも言われ、情報を的確に理解認識する能力とされている。つまり、しっかりとしたメディア・リテラシーを有する方であれば、仮に伝達された言語情報に不適切な内容(例えば、扇情的な政治的価値観)が含まれていたとしても、それを排除し、的確に情報を捉え、対象世界を再構築できる。そうでなければ、事実とは異なる世界が構築されてしまうことになる。事実、それを意図して不特定多数の個人を誘導するように巧みに操作された情報もある。特に政情不安定な国から発信される情報には注意が必要だ。
ある事象の実態が織り成す世界は、(言語)情報としていかようにも分節化が可能である。そこで、ある事象の実態に関連する(その世界を分節化した)言語情報を集積し、データベース[コーパス]化することは、言語による(対象となる事象の)(仮想)世界の一端を表しているものと考えられるであろう。
筆者の考える「メディア研究」とは、こうしたある特定の事象に関するコーパス(分析対象コーパス)と、不特定の事象をできる限り集めた、より大きく、より普遍的なコーパス(参照コーパス)とを比較検証し、前者の分析対象となるコーパスからその事象に特徴的な語や表現を統計処理を施しながら客観的に抽出し、主観的な考察を極力排除した上で、特徴語に関連する用例分析の過程で研究者の知見を活かす、というものである。
今回の研究発表では、主要英語文化圏(英米加豪)のメディアが報じた東日本大震災関連記事をコーパス化し、参照コーパス(現代英語の百万語レベルの集積体であるFROWNおよびFLOB)と比較しながら特徴語を抽出し、それに基づいて対日イメージに関する評価対象語を選定した。次に、評価対象語と共起している評価語を調査し、客観的且つ一般的な評価であるgood, nice, beautifulなどを一次的評価語として排除し、イメージや印象の構築に影響のある情緒的な表現を二次的評価語として最終的な用例分析対象とした。(2月23日「impression」「impression2」を参照)
そして、用例分析の過程で、評価対象語と評価語を中心に前後のコンテクストを適宜参照しながら、肯定的、否定的、不明の3種類に分類した。最後に、震災報道コーパスの考察結果と外務省の海外世論調査とを比較考察し、対日イメージに関するある一定の整合性を見ることができた。
発表後の質疑応答で印象的であった質問が、筆者が否定的と判断した評価語の”courtesy”に関するものであった。質問者の研究者は、(おそらく辞書的意味ということであろう)courtesyは肯定的ニュアンスがあり、今回の評価自体、研究者(筆者)の主観によるものではないであろうか、というものであった。確かに肯定・否定の最終的な分類には研究者の知見がどうしても必要になるということは上述した通りである。それゆえ、そこまでの過程にできる限りの客観性を持たせる意味(フィルタリング)で、コーパス分析を取り入れているという内容の回答をさせていただいた。実際、すべての語や表現のの辞書的な意味が普遍的というわけではなく、コンテクストの応じてしばしば異なる意味やニュアンスが醸成されることがある。(拙著「100語で学ぶ英語のこころ」を参照)
もちろん今回のcourtesyを“何となく”否定的評価語としたわけではない。下記用例に見られるように、courtesyの前後に共起する語を確認していただきたい。
courtesy
The Japanese are sticklers for courtesy. So many people living in close quarters have
little choice but to be nice to one another…..Community spirit: This is the big
one. Some might say it’s a
hyper-organized, anti-individualistic, perhaps even repressive
society.
(Toronto
Sun March 19, 2011)
下線部の表現を見ていただければ、日本人は「礼儀にうるさく」、日本社会とその根幹を成す共同体意識は、「過度に組織化」され、(個を重視する英語文化圏と対比して)「反個人主義的」であり、(それゆえ)「抑圧的」であるという評価と言える。辞書的なcourtesyは肯定的であっても、この用例内では、(特に災害時には)(日本的)courtesyは、むしろ制約や障害になりうると読み取れるであろう。これらを根拠にして、筆者は震災報道における日本的courtesyは否定的評価がなされていると判断した。
それでも、質問者が疑義を唱えるのももっともなことである。発表内容や配布資料では、このような説明が不十分であった。これは他の評価語にも言えることであろう。これらの評価語を含む用例分析こそが筆者の考える「メディア研究」の肝とも言える部分である。さらなる工夫の必要性を指摘していただことに感謝したい。
1つの方策としては、学会誌掲載論文である「言語と文化の不可分性に関する研究―大学新聞におけるcommitmentの様相―」で用いた特定語のみを分析対象として、その意味成分を抽出し意味的類型化を試みる、ということが考えられる。(今回は「対日イメージ」という大きな括りであった)この手法を用いることで、先のcourtesyの評価分析もさらなる客観性を持たせることが可能になろう。ただ、筆者の文才の欠如もあって、これらの分析手法を紙面の制約のある1つの論文にまとめることは(弱気ではあるが)難しいように感じる・・・(本ブログだけでも、すでに原稿用紙7,8枚相当分は費やしてしまっている)