2011年5月28日土曜日

Twitter発-新表現(?)


今回の大震災など、緊急時のコミュニケーションメディアとしてtwitterがこれまで以上に注目された。そのtwitterは文字数がかなり制約されたテキストメッセージ中心のメディアである。画像も投稿可能ではあるが、基本テキストによる発信が主であろう。特にユーザーが体験・経験している“今”の事実や事象といったローカル情報の発信に有用に思える。例えば、首都圏における震災直後の電車の運行状況やガソリンスタンドの待ち時間などである。そもそもtwitterとは「(小さな)鳥のさえずり→(人の)つぶやき」という意のtweetに由来するようだ。気軽に見たこと、感じたことをテキスト発信できる、というのがtwitterの特性の1つと言える。

そうした字数の制約があるテキスト中心のメディアでよく見かける表現の1つに「・・・なう」がある。これは場所や動作・行動などを前置要素にとり、「・・・(場所)にいるよ」、「・・・(動作・行動)しているところだよ」といったニュアンスである。おそらく字数対策としての短縮化の工夫であろう。
学生の例をとれば、
「学校なう」→「いま学校だよ」(場所)
「ランチなう」→「ランチを食べているところだよ」(動作・行動)

インターネットの掲示板やブログ等のメディアでもそのサイト特有の表現というものはある。時代の変容とともに、新しいメディアが登場し、それと同調するかのように、新表現がうまれてくる。そして、広くユーザーや社会に認知されていくことがある。たとえ、それが文法的に不適切であったとしても。。

“ことば”の造語力は興味深いものだ。

2011年5月16日月曜日

patience (2)

前回の再投稿で、"Our patience is wearing thin."を「我々も我慢の限界がきている。」という用例があるが、今回の福島原発問題に関する米保守系オンライン紙の"The Christian Science Monitor"では、日本人の特性の1つとして"gaman"(我慢)を取り上げていた。それによると、patienceをもって、persevere, endure((あることに)(痛みや困難に屈せずに)継続してやり抜き)し、overcome(乗り越える、克服する)することがgamanであると、評価しているのが興味深い。

"One noble trait that the Japanese admire is gaman. It is their word for the ability to persevere, endure, and overcome, with patience."
(Christian Science Monitor March 15, 2011)

『スーパー・アンカー英和辞典』(第3版)によると、「忍耐」のとらえ方について、「英語圏の人々も時と場合によっては忍耐やがまんに価値を置くが、日本の「石の上にも三年」とか「ならぬ堪忍、するが堪忍」ということわざが示すような、長期間の忍耐や自虐的とも思えるがまんに価値を置くようなことは一般的ではない。」(p.1179)とある。この点から、「いらいらせず冷静に耐えるという受け身的な面を強調する」を含意するpatience(同p.1179)では、長期化が必至となり、放射能の脅威に立ち向かわなければならない福島原発の現状に対する日本人の姿勢を示す表現として不十分であるのだろう。つまり、日本語文化的な"gaman"は、英語文化的な視点からすると包括的であり、1語ではなく、多様な意味成分で捉える必要があると言える。

【再投稿6】patience



情報と言語(仮)








*備忘録的に書き留めたものである.

2011年5月15日日曜日

vulnerable (2)

前回、vulnerableを再投稿した。そのvulnerableは企業買収に対する弱さを表す語として取り上げた。
今回、先の大震災と原発危機問題に関する海外メディア報道における、vulnerableを含む記事を見てみよう。

"Many coastal communities were ravaged last month, and some have become even more vulnerable to tsunami waves because sea walls were breached and land levels sank."    (Newyork Times April 7, 2011)

これは、津波被害により、多くの沿岸地域において地盤沈下や侵食がすすみ、これまで以上に津波災害の危険性が高まっているという内容のものだ。weakがlittle strengthやlacking powerを含意するのに対し、津波という外的な自然エネルギー(の脅威)に“弱い”という意味付けからvulnerableが用いられているというのがわかる。

2011年5月8日日曜日

クロスメディア

ある事象の意味内容を伝達可能なカタチとしたものとして“情報”があり、テキスト[言語情報]はその1つであろう。テキストは記号のセットであり、それはある規則性によって語や文が成立している。しかしながら、テキストはある事象や実態を捉える分節化された“像”でしかない。そこには、事象や実態を映し出す音、静止画像、映像などはない。実際にある事象や実態を経験しない限り、それらの本質を理解することはきわめて困難である。そこで、できる限り、そうした事象や実態の本質を理解するために、さまざまな形式で情報にアプローチすることになる。その基本的なカタチがテキストであり、その代表的な情報伝達媒体は新聞であろう。時に新聞には静止画像を掲載することで、ある事象や実態の意味内容を効果的に伝達することができる。それでも紙媒体としての新聞では、そこまでである。

近年ITの発展により、多種多種な情報伝達媒体が登場した。その中心はインターネットであろう。インターネットはテキストをもちろんのこと、音声、画像、映像を同時に経験することが可能だ。しばしばマルチメディアと言われるのは、こうした特性からである。ただし、インターネット環境は、利用者がその環境を構築(自宅であれ、外部環境であれ)し、それを活用する必要がある。最近では携帯電話やスマートフォンと呼ばれる多機能携帯電話でもインターネット環境は構築されるが、限定的な一面がある。そうした中で、最近注目されているのが、クロスメディアである。これは、最初はテキスト情報であっても、そこにインターネットや動画情報のアドレスを掲載したり、QRコードを付与したりすることで、次の情報へと発展的に導く仕組みやその方法のことである。ある1つの事象や実態の本質を複数のメディアで横断的に捉えようとするところからcross-mediaと呼ばれているのであろう。特に、クロスメディアは宣伝・広告等で有効と考えられている。これまでもあった付録としてのCDやDVDはクロスメディアの(初期の)1例と言える。

今後twitterやfacebookの普及により、ローカル且つパーソナル情報もクロスメディア化がすすむことであろう。それにともない、世界のあらやる事象がリンクされていくことが推測される。


2011年5月2日月曜日

メディアリテラシー(2)

5月の連休、いわゆるゴールデンウィークに入り、当初の予想に反して、行楽地では例年並みのにぎわいを見せているようだ。もちろん被災地を中心に、東北・関東エリアは連休を楽しむという雰囲気ではないようだが、西日本では海外からの観光客も含め、春の楽しいひとときを過ごしているようだ。

先日のテレビでは、いまだに水(ペットボトル入り)の購入に制限がかかっている地域があり、乳幼児のいる家庭では困っているという内容が放送されていたが、筆者の近隣のスーパーでは、ほとんどは制限なしで購入可能になっており、以前とほぼ同じような供給体制に戻っているように感じる。電池も、水ほどではないが、単1、単2が購入可能になってきている。但し、すべてがMade in Japanという保証はないが・・・

スーパーをまわっていると、1つ気になることがあった。それは、被災地、特に原発近隣エリア産の野菜の山であった。テレビでも取り上げられているが、福島、茨城、栃木、千葉産ものは、売れ残っているようだった。これは“風評”被害の1例であろう。確かに目に見えない放射能汚染を気にする消費者心理は分かる。だからこそ、政府、関連企業の正確、且つ迅速な情報開示が求められていたのだが、現実には消費者心理を煽るような数値の開示であり、それに対する修正、訂正等の情報は不十分なものと言える。

今回巨大地震と津波という1次的な自然災害に加え、情報という2次的、3次的な人的災害が東日本に深刻な影響をもたらしたと思う。今後被災地エリア産の野菜のみならず、海産物、乳製品等の消費の落ち込みが懸念される。それにともない、他エリア産の需要が上がり、供給不足の発生という負の連鎖が起こるであろう。

大災害発生時には、水、食料等のライフラインの確保と同様に、“情報”の入手は重要である。その“情報”の主体は言語である。もちろん、音やシンボルとしての絵や図、記号などからも情報は構成されるが、複雑に多様化した現代社会において、言語の使用なくして合理的で、効率的な行動をとる、すなわち秩序化するための情報を形成するということは困難であろう。そして、言語による情報というものは、我々の思考に直接的に働きかけ、行動を規定するものと言えよう。そこで問題となるのが、そうした(言語)情報の信憑性である。特に災害時には新聞、テレビ、ラジオ等のメディアという情報媒体に依存することになるが、それらが発する(言語)情報がその源となる事象の本質を的確に捉えているかどうかということである。しかしながら、さまざまな事象はメディアのフレーム、具体的に言えば、現場担当記者の目や編集担当の捉え方等、を介して伝達される。実際、フレームの形によって情報の捉え方(ニュアンス)も容易に変容するものだ。おおげさに言えば、ノンフィクションであるニュース情報が、ドラマティックな編集をほどこすことでフィクション的な伝達ということが可能になるであろう。そのような場合、情報の受け手は現実よりも衝撃的な印象を持つ可能性も否定できない。

東日本大震災をうけて、上掲の風評被害の一端は、政府や関連企業というメディアフレームを通じた情報によってもたらされたと言えるが、我々はいかなるメディアフレームであれ、情報の本質をしっかりと読み解く力、真のメディアリテラシー、を積極的に習得していく必要性があるだろう。それは、情報が氾濫する現代社会においては、ライフラインと同様に、健全な社会生活を営む上で不可欠である。

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