5月の連休、いわゆるゴールデンウィークに入り、当初の予想に反して、行楽地では例年並みのにぎわいを見せているようだ。もちろん被災地を中心に、東北・関東エリアは連休を楽しむという雰囲気ではないようだが、西日本では海外からの観光客も含め、春の楽しいひとときを過ごしているようだ。
先日のテレビでは、いまだに水(ペットボトル入り)の購入に制限がかかっている地域があり、乳幼児のいる家庭では困っているという内容が放送されていたが、筆者の近隣のスーパーでは、ほとんどは制限なしで購入可能になっており、以前とほぼ同じような供給体制に戻っているように感じる。電池も、水ほどではないが、単1、単2が購入可能になってきている。但し、すべてがMade in Japanという保証はないが・・・
スーパーをまわっていると、1つ気になることがあった。それは、被災地、特に原発近隣エリア産の野菜の山であった。テレビでも取り上げられているが、福島、茨城、栃木、千葉産ものは、売れ残っているようだった。これは“風評”被害の1例であろう。確かに目に見えない放射能汚染を気にする消費者心理は分かる。だからこそ、政府、関連企業の正確、且つ迅速な情報開示が求められていたのだが、現実には消費者心理を煽るような数値の開示であり、それに対する修正、訂正等の情報は不十分なものと言える。
今回巨大地震と津波という1次的な自然災害に加え、情報という2次的、3次的な人的災害が東日本に深刻な影響をもたらしたと思う。今後被災地エリア産の野菜のみならず、海産物、乳製品等の消費の落ち込みが懸念される。それにともない、他エリア産の需要が上がり、供給不足の発生という負の連鎖が起こるであろう。
大災害発生時には、水、食料等のライフラインの確保と同様に、“情報”の入手は重要である。その“情報”の主体は言語である。もちろん、音やシンボルとしての絵や図、記号などからも情報は構成されるが、複雑に多様化した現代社会において、言語の使用なくして合理的で、効率的な行動をとる、すなわち秩序化するための情報を形成するということは困難であろう。そして、言語による情報というものは、我々の思考に直接的に働きかけ、行動を規定するものと言えよう。そこで問題となるのが、そうした(言語)情報の信憑性である。特に災害時には新聞、テレビ、ラジオ等のメディアという情報媒体に依存することになるが、それらが発する(言語)情報がその源となる事象の本質を的確に捉えているかどうかということである。しかしながら、さまざまな事象はメディアのフレーム、具体的に言えば、現場担当記者の目や編集担当の捉え方等、を介して伝達される。実際、フレームの形によって情報の捉え方(ニュアンス)も容易に変容するものだ。おおげさに言えば、ノンフィクションであるニュース情報が、ドラマティックな編集をほどこすことでフィクション的な伝達ということが可能になるであろう。そのような場合、情報の受け手は現実よりも衝撃的な印象を持つ可能性も否定できない。
東日本大震災をうけて、上掲の風評被害の一端は、政府や関連企業というメディアフレームを通じた情報によってもたらされたと言えるが、我々はいかなるメディアフレームであれ、情報の本質をしっかりと読み解く力、真のメディアリテラシー、を積極的に習得していく必要性があるだろう。それは、情報が氾濫する現代社会においては、ライフラインと同様に、健全な社会生活を営む上で不可欠である。