2013年1月12日土曜日

言語文化論―『道』 ~新年の挨拶に代えて





 今週、本務校の研究紀要への拙論を脱稿し、編集担当者に無事提出することができた。「言語文化論―道に関する考察」と題する拙論は、分析対象語となる「道」には,物理的な通行路のほか,「人が考えたり行ったりする事柄の条理・道理」,「てだて・手法・手段」,「方面・分野」といった辞書的な意味があり,「道」と連結する前置要素を3つに大別し、それらの代表語を精査することで,「道」に関する言語文化的特性を見つけ出そうと試みたものである。まず,第1に,「道」の前置要素が社会集団である場合,行動規範や道徳観・倫理観として,その社会集団の在り方や,(そうあるべき)態度や姿勢を(時に厳格に)表すということだ。仮に「(そうあるべきこと)」の体現を「美」とするならば,「道」には,「行動美学」という一面も含まれるであろう。次に,「道」は,学問や文芸と結びつく傾向も強く,自然界との調和などを意識化しながら,茶道に代表される「侘び(寂び)」のように,より高い次元へと精神性を引き上げようとする姿勢が含まれるということである。礼儀作法はそうした精神性の再現と言える。そして,最後に,森羅万象の<ソトの世界>を“言葉”によって切り出し,その切り出された“言葉”を辿ることで,<ソトの世界>を再構築し,人々の<ウチなる心>と結びつけるのが「道」ということである。つまり,「武士道」における「切腹」という死生観,「人道」における「食糧支援」,「茶道」における「もてなし」や「気働き」,「神道」における御神体への「注連縄」などは,「行動規範」であり,「道徳意識」であり,「精神性」であり,それらの総体としての日本の「文化性」であり,<ウチなる心>と<ソトの世界>とを結びつける立体化された「道」の一端なのである。
この意味において,「道」とは,我々を取り巻く(森羅万象の)<世界>の断片をそれとして知覚し,認識する対象であり,その対象世界を体系的に捉えようとする世界観の外化でもあると考えられる。人々は,そうした「道」を感じとりながら,言語によって秩序付けられた文化的な日々の営みをおくっているのである。
 一昨年、筆者にとってかけがえのない人が、現世でのその歩みをとめ、『道』という“標”を遺し、旅立っていった。そして、魂の入れ替わりのように、新たな命の『道』を授かった人が筆者のもとへと舞い下りてきた。そして、筆者にとってかけがえのない人となったその人は、今日その『道』を歩みはじめて2年という時間を迎えることとなった。かけがえのないその人は、これからの歩みの中で、いろいろな<ソトの世界>に触れ、<ウチなる心>を感じとっていくことであろう。その人の『道』がどれほど長く、どれほど広く、どれほど豊かで、どれほど険しいものになるかは分からない。それでも、筆者の命の『道』が続く限り、その人と同じ『道』を感じていきたいと切に願うばかりである。


『道』


かけがえのない人の名前が記されている。(些細なことかもしれないが)これもその人の『道』の証しとなろう。ちょっとしたケーキ屋さんの心遣いである。ダイエット継続中ではあるが、今日だけはかけがえのないその人の『道』の一端を味わおうと思う。







2012年12月5日水曜日

くびれ


■先日の京都出張の合間に、日頃の規制食を一時解禁し、久しぶりに京料理に舌鼓を打った。同僚の先生方との昼食会では京湯葉をいただいた。京都らしい町家づくりの店構えに、入店前から気持ちが少し高ぶった。仲居さんの対応も好意的で、ちょっとした食前酒代わりになるほどであった。注文後、ほどなくして、食事が運ばれてきた。数種類の小鉢から構成される京懐石弁当風の料理は、どれも美味で、ダイエット中の筆者にはちょうど良いサイズの黒ごま豆腐プリンを食す頃には、京都の味で体内が浄化されたような気分になった。
 帰りの新幹線内でも京のおばんざい弁当をいただき、食欲は京都で十二分に満たされたのだが、帰宅後、我に返り、すぐに体重等のチェックをおこなった。幸いにも、大きな変動は見られず、ほっとした。ただ、ほんの少しだけ、わき腹の肉がもたついているような感じがした。そこで、ちょっと気になったことが、こうしたわき腹の無駄な贅肉のことをしばしば英語でmeatというが、その逆、つまり、「くびれ」に相当する語*は何であろうか、ということである。確かにこれまでの経験上「くびれ」にあてはまる語は聞いたことがなかった。通例美しい「くびれ」のある方に対しては、"a shape like an hourglass"(砂時計のようなスタイル)や"bottle"((コーラのような)瓶に似たスタイル)というが、それは「くびれ」部分だけを指しているのではなく、体型のことを言っている。そこで、これはかなり俗語的で、教育上好ましくないかもしれないが、女性の丸みを帯びた曲線(美)のことを"love curve"**ということがある。但し、"love curve"は、正面から見た際に強調される「くびれ」部分のみならず、横から見た際にも強調される胸[バスト]と腹部まわりとの差によって生み出される(腹部まわりの)曲線(美)も含まれており、必ずしも(わき腹を主とする)「くびれ」の曲線だけではない。それでも、"love curve"は、女性特有の曲線(美)と言える「くびれ」に最も近い表現の1つに思える。ちなみに、ダイエット的に好ましいと考えられる「くびれ」は、ウェスト:ヒップ比である程度観察できるそうだ。ウェストサイズをヒップサイズで割り、その値が0.7であれば、女性的な美しいウェストラインや「くびれ」がある、と言えるというものだ。男性は骨格の関係で女性のような極端な「くびれ」は出ないが、いわゆる「メタボ」に対する目安として、同比が0.9であることが望ましいとされているそうだ。
 なお、先のわき腹の贅肉のことを"love handles"、すなわち、異性が好意を示す際に両手で(ハンドルのように)握れるほどの贅肉、と言うことがある。興味深いことである。■

*『スーパー・アンカー和英辞典』(第2版)では、「くびれたウェスト」のことを"wasp waist"「スズメバチのようなウェスト」と言うことを紹介している。これは主にウェストを絞ったファッションのライン[デザイン]を指すことが多い。特に19世紀頃のイギリスをはじめとするヨーロッパでは、(wasp waist) corsetやgirdleで腰を絞ったファッションが上流階級を中心に流行していた。これは、腰を絞り、胸と尻回りをより強調することで、feminine beautyを醸し出そうというねらいがあったものと考えられる。
  
 wasp waist corset (1885)
したがって、(例えば)ビキニ姿の(くびれがある)女性に対してはこの語を用いることはそれほど多くはないものと考えられる。その他、"pinched-in"といった表現もあるが、これは(ウェスト部を)挟んだ[つまんだ]ような形という意味で、無理に絞り込んだというニュアンスが残り、feminine beautyに欠ける。
**Urban Dictionaryでは、"love curve"を”The soft concave curve found on both sides of the waist in young females with hourglass shaped figures."と定義しており、これは(女性の)ウェストの両側を指す、と解釈できる。



2012年12月4日火曜日

京の侘び・・粧[装]い



・・・言葉も控えるほどの美しさです。

大徳寺黄梅院

清水寺
・・・まさに、山粧[装]ふ。


2012年11月29日木曜日

Body cleansing ≒ ボディクレンジング !?


■日本でも話題になった映画「プラダを着た悪魔」(原題:The Devil wears Prada)の主人公Andyを演じたAnne Hathaway氏が、ファッション誌Vogue12月号の表紙を飾ったことが一部報道された。一時期過食気味で、スタイルがかなり崩れたということであったが、同誌では見事な美貌とスタイルでご自身を表現されておられる。報道記事によると、氏はbody cleansingにより、体型を整えた(取り戻した)とのことであった。Body cleansingとは、body detoxificationとほぼ同義であり、ハーブエキス等を定期的に摂取することにより、体内の毒素[老廃物]を除去し、肝機能などの働きを改善することをねらいとするものである。毒素[老廃物]を排泄、浄化することにより、代謝機能も高まり、ダイエット効果が期待できるとのことである。
 一方、カタカナ表記のボディクレンジングを検索すると、ソープやボディシャンプーを後置要素として結びつき、肌をきれいにするための液体洗浄剤としての商品紹介が検索上位に登場する。特に、落ちにくい日焼け止めクリーム対応をウリにしているものが多い。
 こうしてみると、体内の洗浄、浄化を主眼とするbody cleansingに対し、体外、特に肌をキレイにすることを主に意味するボディクレンジングという、両者の違いが分かる。 これも日英言語文化の違いに起因するものと言えよう。
 ところで、筆者も英語文化のdietを継続中だが、開始から約3か月半が経過し、体重8キロ減、体脂肪率(変動が激しいので平均)4.5%減、体年齢(?)も、ついに実年齢マイナス7歳となった。筆者は特にdetoxificationのようなことはおこなってはいない。いわゆる英語文化的なdiet、すなわち、バランスのとれた(糖質控えめの)食事と、規則的なトレーニング(筋トレと有酸素運動)である。これまで無理なく継続できている。最近では、リンゴ酢と黒酢も積極的に取り入れることで、(トレーニングなどの)疲労軽減にも成果を感じている。とにかく、良い意味で、「痩せ」てきたと言える。パンツ[ズボン]類も拳1~2個分が入るようになり、腰をベルトで絞り込むため、こちらはデザインのシルエットが崩れるという意味で困っている。また、体重減にともない、膝や腰も軽くなり、日々の生活が楽になった。 ここでも、日英言語文化の違いがあるのだが、日本人同僚からは、「先生、最近“痩せ”ましたね」と言われることが多くなったが、英語圏文化の同僚からは"You look great"と声をかけられる。もちろん、顔つきやイントネーションにより、様々な意味が付加されることはあるが、単に“痩せ”ましたね、では、時に病的[不健康]な“痩せ”も想起させることになるであろう。いくらコンテクストに依存する日本語文化とは言え、もうひと言、ふた言、言葉を足すとより好意的なコミュニケーションになると思う。例えば、「最近痩せましたね。(体や顔つきが)締まってきましたよ」などである。とにかく、こうした点も、日本語文化、英語文化を比較対照させることで顕在化されてくる。(身近な)日々の営みにも興味深いことはまだまだありそうだ。

2012年11月25日日曜日

Turkey nap, Black Friday, and Cyber Monday


■今日で3連休も終わり、また明日から通常の勤務日が始まるが、アメリカでも今週末は木曜のThanksgiving day(感謝祭の祝日)から大学などはちょっとしたBreak(短期休暇)であったことであろう。そうした折、少し前に米国留学時の大学からalumni(卒業生の複数形;単数形はalumnus)宛ての電子メールが筆者のところにも届いた。その中に下記のような画像が貼り付けられていたので、ちょっと紹介しよう。これは、ThanksgivingのTo-Doリスト(やるべき用事の一覧)を題材にした大学への寄付宣伝用であり、日本では、正月用の買い物リストといったところであろうか。その中にある、"feast"というのは、「祝宴」という意味であり、一般にはThanksgiving dinnerを指す。その後の、"take a turkey nap"がおもしろい。日本でも、正月のおせち料理やお屠蘇をいただき、炬燵の中で、ついうたた寝、ということがあろうかと思うが、前掲したThanksgiving dinnerの食事のあとには、ついソファなどで寝てしまうということがどこのアメリカの家庭でも見られる。そこで、そのThanksgiving dinnerの主役とも言えるturkey(七面鳥;名前の由来はGuineafowl(ギニア産ホロホロチョウとの混同) )を食した後に眠くなる様子から、そう呼ばれているのであろう。そして、その次の"watch a parade"は、通例ニューヨーク・マンハッタンのダウンタウンを練り歩く老舗デパートMacy's主催のパレードのことである。このパレードのほか、college footballを見るというのも恒例である。
 そして、木曜のThanksgiving dayが終わると、"Black Friday"と呼ばれる、クリスマス前商戦が一斉に全米各地で始まるのだ。筆者も"Black Friday"に近くのmallに出かけたことがあったが、ひどい渋滞に巻き込まれ、散々な思いをしたことがある。日本人的感覚からすれば、セールはクリスマスまで継続されるわけであり、感謝祭翌日の金曜日だけに必ずしも目玉商品が出されるというわけでもない。それでもアメリカ人は皆一斉にspending spree(過剰に買い物すること)と化してしまうのだ。これはもう抽象的ではあるが、「文化」の一端としか言いようがないくらいである。(もっとも、アメリカ人が一斉に動き出すという点においてはある意味「秩序的」ではあるが、shopping mall内やその周辺の様はそうとは言えない・・・)
 そして、インターネット時代を反映するかのように、感謝祭明けの月曜からは、"Cyber Monday"と呼ばれるネット通販を中心としたセールが始まるのである。実際、米国Amazonや(アジアの隣国がアクセス制限をかけられたことで話題になった)Gapのサイトでは、"Cyber Monday Deals Start Today"(「サイバーマンデー」のオンラインセールが本日始まります)などの宣伝文句が昨日今日あたりから画面上に見られる。
 日本ももうすぐ師走に入り、慌ただしい雰囲気になってくるが、海の向こうのアメリカでは、そうした時期がひと足早く来たようだ。






http://g-ecx.images-amazon.com/images/G/01/img12/x-site/cyber-monday/h1-banners/cyber-monday-h1_470x40-2_up._V400510654_.jpg



研究論文とは




■「研究論文」には、我々を取り巻く<世界>の中で、研究者が関心のある特定領域(<世界>の一端)に対する問題提起とその解釈(の一部)について、仮説や推論、先行研究への批判的考察、数値的検証を加えながら客観的妥当性を示し、論理的整合性を維持しながら、独自の見解や今後の検討課題を導き出すという点が含まれるであろう。
 その場合、前掲した「自然科学分野」における論文であれば、研究者が接触する、すなわち経験する<世界>を主に数字や記号で表現したり、再現しようと試みたりすることが多い。そして、数値化や記号化された<世界>を分析考察結果に基づいて再現可能な状態として記録、保存、共有することで知の体系化の基盤として蓄積していくことになる。そして、後進の研究者が先行研究としてそれらの研究を参照しながら、新たな問題提起、解釈、発見をしていくきっかけとなる。こうした一連の学術活動が人類の<進化>の一端を担っていると考えられる。
 同様に、「人文(社会)科学分野」の論文であれば、上述の<世界>を言語で表現したり、再現しようとしたりすることが多い。また、言語は外の<世界>の代替表現[符号]としてだけではなく、人の内なる思考、認識、感覚等の外化として記録、保存、共有、すなわち、ある「実態[]」とそれに接触[経験]する人の認識や解釈等に関する「知識」としての「情報」の主体にもなりうる。もちろん、数字や記号も、ある自然現象に関する“科学的”に集約された「知識」の主体として用いられている限り、「情報」の一端と言える。しかしながら、<世界>の一部としての現象を解明する数値化や記号化の分析過程は通例複雑であり、「情報」の圧縮率も高いため、その再現は、人の日々の営みにおいては、容易ではない。それゆえ、日常生活における「知識」としての「情報」の共有と伝達、広義の「コミュニケーション」においては、「言語」を用いることの方が都合がよい、いわば合理的である、ということである。この点から、人の営みに関する事象や社会現象に対する接触、考察、認識、その結果としての知識化は、基本的に「言語」によって構成されることになる。そして、「人文(社会)科学」における研究論文において、「言語」が分析考察の主たる構成要素であるということは、分析対象となる<世界>の“切り出し”が、「知識」としての「情報」の圧縮率が高い数字や記号を駆使した「自然科学」におけるそれよりも、大きいということである。また、その“切り出し”方も一定とは限らない。したがって、先行研究の参照・批判や数値的検証等による客観的妥当性の確保と論理的整合性の維持が重要となってくる。さもなければ、(客観性に欠ける)主観的な見解もしくは、単なる独り言の類になってしまう。それはそれで、日記のようなものであれば問題はないが、「知の体系化の基盤」として蓄積され、人類の未来に活用されるために、こうしたことは肝要である。その意味で、研究者というものは、過去と未来を紡ぐ<世界>の伝承者としての一面も備えていると言えよう。■


2012年11月24日土曜日

日英言語文化小論(6)【自然科学と人文(社会)科学】




■前掲したように、「・・・しかしながら、先の様々な自然現象の科学的論証や実験に基づく合理的実証への着想が、(秩序付けられた)人類の日々の営みの中で醸成される感性によって養われるということであれば、「科学」は「文化」の一部という見方もできる。この点は、「科学」が自然界の現象の体系的解明を主とする「自然科学」と、人類や社会の事象や概念を論証する「人文科学(社会科学)」との二分化(三分化)されることと関連があると言える。」という点に触れたが、「科学と文化」という枠組みの中で、「自然科学」と「人文科学(社会科学含む、以下同じ)」との分類についてもう少し考えてみたい。
 通例「自然科学」との対比として「人文科学」と言う場合は、それは研究[分析]対象によるものである。ある自然現象(の実態[])に関して(研究者の“科学的直観”により立てた)仮説による推論を合理的に実証し、普遍的法則性(と時に新発見)の記録と保存により、再現性が認められるような解明とその体系化は、「自然科学」と言える。数字や記号、それらを用いた公式などは、対象となる自然現象(の実態[])の(人為的な)代替コード[符号]であり、現象の再現に用いられる法則性の記録と保存に必要となる。
 一方、個々の生活におけるある事象や社会現象、その総体としての文化()現象に関して、主に言語を代替コード[符号]として充てることで、様々な文化()現象を分析可能な状態にしていると考えられるが、その言語を媒介として、現行研究となる文化()現象に関する(経験に基づいた)解釈と、先行研究との論理的整合性の検証(と時に新発見)が中心となるのが「人文科学」と言える。例えば、過去の文化()現象に関する法則性、換言すれば社会規範、慣習、マナー等を、言語を用いて記録、保存し、再現性が現代においても維持されているのであれば、それは「伝統」ということになり、今後の解釈や検証の根拠となりうる。最近では、言語学、特に英語メディアに表出された社会現象を分析対象とする分野において、言語を数値化し、その分析対象言語と共起する語との結びつきとその変容等の数値解析から、客観的妥当性を加味することで、(主観的になりがちな研究者の)解釈の検証過程において論理的に破綻しないような試みがなされている。
 このように、自然現象の主たる代替コードとして数字や記号を、文化()現象の主たる代替コードとして言語を、それぞれ用いて諸現象の法則性、規範、慣習等(の実態[])を解明し、再現可能な状態になるよう記録・保存することが「科学」(の一端で)であり、「自然科学」であれ、「人文科学」であれ、“科学的”実証[検証]の結果が蓄積され、共有されることが「知識」であり、一般的知識体系の構築が(“自然”との対比から)豊かな人の営みの為に必要な秩序化となる「文化」と言えるであろう。
 もちろん、「真理の追究」としての「科学は科学」であり、「(人の)欲求の実現」としての「文化は文化」である。両者は、我々を取り巻く<世界>に関する、異なる独立した体系的知識およびその構築活動[作業]という一面も窺える。むしろ、現代においては、そうした主に「自然科学」の真理の追究を志す者を「科学者」とし、「文化」を含む「人文科学」の研究者を「科学者」と呼ぶことが控えられているように感じる。
 それでも、(自然との共生・共存から)人が実態[]との接触を通じて得た感覚や認識、すなわち経験に基づいて、人為的な数字や言語を用いて我々を取り巻く森羅万象の<世界>を数値的に説明したり、言語的に意味づけしたりするということにおいては、「科学」は「文化」的活動の一端であり、「文化」は「科学」的探究にも支えられている、と考えられよう。この問題については、まだまだ考察が必要だ。(・・・続く)

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