2012年3月5日月曜日

Gordon Gekko的accountability


 
 先週につづき、またテレビで映画を見た。おそらく、多くの方がリラックスする時間帯を想定しての放送設定なのかもしれない。筆者もちょうどその時間帯にあたることが多い。
 今回は日本経済も華やかだった頃の、1980年代後半のアメリカ・ニューヨーク金融界が舞台となる社会[経済]派映画である【ウォール街】(原題Wall Street)だ。当時企業の合併・買収(M&A)をキーワードに、大物(機関)投資家の動向や、それにともなうインサイダー取引などの事件が、日夜メディアを賑わしていた時代である。
 映画の中で、マイケル・ダグラス演じる投資家Gordon Gekko氏が筆頭株主として製紙会社での株主総会で次のように発言している。

“Now, in the days of the free market, when our country was a top industrial power, there was accountability to the stockholder. The Carnegies, the Mellons, the men that built this great industrial empire, made sure of it because it was their money at stake. Today, management has no stake in the company!”

「・・・では、我が国が世界一の産業力を誇った自由主義(経済)が全盛であった頃、株主に対する(企業側の)(確固たる)責任というものがありました。かのカーネギー家[財閥]、メロン家[財閥]、その他我が国を一大産業()国にまで築き上げてくれた方々は、しっかりとその責任を果たしました。なぜならば、自身の()金を(ほとんど)投じていたからです。今ではどうでしょう、我が社の経営陣はまったく(と言っていいほど)自身の金を投じておりません・・・」

拙訳ではあるが、このような意味内容であろう。ここで、accountabilityについて少し考えてみたい。形式的ではあるが、株主総会を開き、赤字を計上した理由やその額を株主に対して(たとえ不十分であったとしても)“説明”している、という点においては、“説明責任”を果たしていると言えなくもないであろう。(前回も取り上げたように、accountabilityは「説明責任」という日本語訳があてられることが多い)
Gekko氏は、その発言の中で、19世紀後半から20世紀初頭にかけて大繁栄をきわめたアメリカ経済と当時の経済を比較して、accountabilityをキーワードに経営陣を真っ向から批判している。注目すべき点として、カーネギーやメロンなどは身銭をきって企業経営に奔走したが、問題の製紙会社の経営陣は自社にほとんど投資をしていないということである。そこで、前回のaccountabilityの解釈を取り上げながら、Gekko氏の言わんとするaccountabilityの意味を考えてみると、(アメリカ繁栄期は)「整然と(株主に)釈明[説明]できるような正当なおこない(つまり、身銭をきった投資)」がなされていたという、「釈明[説明]」よりも「おこない」を重視した含みがあると考えられる。つまり、(製紙会社の経営陣が)「正当な釈明[説明]」ができないのは、「正当なおこない」がなされていないからということであろう。
このように考察してみると、accountabilityには、自己のおこないの正当性を整然と釈明[説明]するという責任に対してだけではなく、(そうした責任をふまえた)正当性のある「おこない」そのものに主眼をおいた責任に対しても用いられることがあると言えるのではなかろうか。この意味解釈において、Gordon Gekkoaccountabilityは、言動やおこないに対する実質的責任を意味するresponsibilityにきわめて近いものと考えられるであろう。このように捉えると、accountabilityを、(事前であれ、事後であれ)説明することに主眼を置いた印象をもつ「説明責任」とすることには幾分違和感を覚えてしまう。

■追記
 Gekko氏が発言の中で、現経営陣に対してはno accountabilityではなく、no stake(賭け→投資)を用いているところを考えると、形式的な上っ面だけ[口先だけ]accountabilityを揶揄しているともとれる。

2012年3月1日木曜日

恋愛小説家的accountability

先日映画館に足を運んで見たわけではないが、テレビでは放映のたびについ見てしまう映画の1つである「恋愛小説家」(原題As Good As It Gets)を見た。ひとくせも、ふたくせもある、売れっ子小説家(ジャック・ニコルソン)が、行きつけのカフェの給仕(ヘレン・ハント)との恋愛を成就させるという、想像に難くない内容のものである。その中で、興味深いセリフがあった。ファンらしき女性が主人公の小説家に、どうして小説の中で女性の気持ちを的確に理解できるのか、という質問をした際に、彼は次のように答えている。
“I think of a man and take away reason and accountability.”
「まず男性について考え、それから理性と責任を取り除くことだ」
こんな感じの意味であろう。本映画の設定上、主人公はかなり偏屈な中年男性であるので、女性に対しても相当な偏見をもっているということをふまえての一節と言える。これをまともに公言すれば、いたるところから(特に女性保護団体等)叩かれるのは明白である。
ここで話題にしたいのは、accountability=責任(?)ということである。インターネット上で、accountabilityresponsibility、違い、などで検索すると結構な件数が表示される。多くの方が両者の差異に学問的関心があるのだろう。その両者の違いについて、responsibilityが単に「責任」であるのに対し、accountabilityは「説明責任」という意味があてられることが多い。この点について、『アンカーコズミカ英和辞典』(学習研究社)のそれぞれの項の解説が詳しいので部分的に引用してみたい。
responsibility
responsibilityとは人として規範に沿って道徳的に行動することをいう。・・・一方、英語圏の人々の場合には、集団内部においても、何よりも自分の責任範囲を明確にし、その責任や任務を果たそうという意識が強く働くのが普通である。・・・”
accountability
“・・・責任を十分果たさなかった場合、きびしい報い[]を受けることも意味する重いことばである。これはキリスト教でいう、give an account before God(神の前で申し開きをする;最後の審判の日に、現世でどう生きてきたかを説明してそれに応じた神の審判を受ける)につながっている。”
また、『スーパーアンカー和英辞典』第2版(学習研究社)の「責任」の項では、
【せきにん;責任】
“・・・accountability(自分の言動について釈明し正当化すること)・・・”
とある。こうした点を参考にresponsibilityaccountabilityとの差異について考えてみると、ざっと次のようになるであろう。一般的に、社会や周囲との関係性の中で発生する言動について果たすべき務めがあるような場合がresponsibilityであり、社会(文化)的規範に沿って道徳的に行動することが求められていると言える。一方、(Godとのタテ関係の中で)(必然的に)備わっている(べき)(人としての)基本的本質の1つがaccountabilityであり、自己のおこないの正当性を整然と(社会、そしてGodに)釈明[説明]することが求められていると考えられよう。したがって、responsibilityとしての責任には、ある言動に対する果たすべき務めの範囲が明確にされ、時に他者に移動可能な流動性があるのに対し、accountabilityとしての責任は自己のおこないに対して本来的に負っている、他者に移動できない特異性があると言える。(前者を内的、後者を外的と分類する見方もあるようだが、個人的には馴染まない考えである)
これをふまえて、上掲した映画のフレーズを再考すると、“I think of a man and take away reason and accountability.”「まず男性について考え、それから理性と責任を取り除くことだ」ということは、「男性には理性(reason)と責任(accountability)が備わっており、(すぐに)感情的にはならず、筋道を立てて冷静に物事を考え、判断する論理的思考に優れ、それゆえ、(自己のおこないの正当性を(Godの前であっても)整然と釈明するという)(責任)能力を有しているが、女性にはそれらが欠けている、、、という女性を揶揄した(英語文化圏的)意味内容と捉えられなくもない。このような解釈を試みると、批判のほこ先が筆者に向かってくることが危惧されるが、これはあくまでも映画の主人公で、misanthrope(人間[大衆]嫌い)なMelvin Udall氏の視点から考察しているということをお忘れなきように・・・。

*もっと真剣にresponsibilityaccountabilityの差異を考えてみたい方にとっては、アカウンタビリティーをキーワードに、責任概念について法哲学的アプローチを試みた下記研究論文は大いに参考になるであろう。
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/metadb/up/LIBOSIPPK/26-01_n.pdf
**「お忘れなきように」の用法については、こちらを参照されたい。http://blog.livedoor.jp/yamakatsuei/archives/51762983.html


2011年11月13日日曜日

Culturomicsから言語文化解析学へ

検索サイトで有名なGoogleが英語とドイツ語の文献をデータベース(コーパス)化し、そこからあるキーワードを抽出することで、政治経済から社会文化の潮流までを探ろうという試みを行っている。これは、コーパス言語学的アプローチにみられる定量分析の一種と考えられ、コーパスに関心のある研究者であれば、その有用性は理解できるであろう。英語では、"Culturomics"と呼ばれ、文化を意味するcultureと経済政策などを表す後置要素-nomicsとが連結してできた造語である。メディア等に投影される社会現象の中で、文化的特性を探るのがcultural sociologyと呼ばれる分野であるのに対し、社会の変遷は言語記述によっても観察できるという立場のもと、膨大なテキストのデータベースから文化(の一端)を数値的に解析しようとする新しい学問分野と言える。こうした点から、文化社会学(cultural sociology)、文化経済学(cultural economics)、カルチュラル・スタディーズ(cultural studies)と明確に区別して、Culturomics言語文化解析学という表現をあててみたい。単に文化解析学という表現でも、その内容を反映するものと言えよう。

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