■これまで茶道を指す英語表現として、”tea ceremony”とする書籍等が見られるが、不完全であるがゆえの自然さに満ちた「無」や「空」の中に、茶道の本質の一端である「侘び」があり、単なる儀礼的行為を意味するceremonyではなく、(「無」や「空」の)(茶道の)心へのpathとして”Way of Tea”をあてることで、茶道を英語的に映し出すことができるといえよう。
…That is why it is called a ‘path’ (michi, or do)…Not the kind of
path you walk on, but a path of the heart and mind. And this is why we translate “chado” as “Way
of Tea.” It is not a “tea ceremony.”
この点から、茶道における「道」を観察する場合、単に点前に着眼にするだけではなく、不完全なあるがままの姿、すなわち自然であること、そしてそれは単にしつらえのみならず、亭主と客の心の中が自然(禅宗的には「無」や「空」)になるための「道」であり、辿るべき方向と言えよう。■