2013年12月31日火曜日
2013年12月15日日曜日
茶の湯のことば―休め紐
■「緒(お)」と言えば、「(赤ちゃんの)へその緒」や、「堪忍袋の緒が切れる」などの紐状のものに関する表現が一般的なように思う。茶の湯の世界でも、様々な道具を保管する用途などで「緒」は大切なものである。そうした「緒」を保管する場合、「緒」や裂地に負担がなるべくかからないようにする「休め紐」という結び方がある。
こうした道具の一部分も大切にしようとする姿勢―道具を扱う際に、客が気が付くかどうかは分からないが―こうした心の持ち様も、より良い状態でお道具をお出ししたいという「(影[陰]の)おもてなし」の一端と言えよう。■
2013年12月8日日曜日
2013年12月4日水曜日
茶の湯のことば―縁(へり)
■今日、顧問を務める茶道部の稽古に、現在本務校に留学中のフィンランド学生数名が参加した。フィンランドは(比較的)親日とは聞いていたが、いずれの学生もある程度の茶道に関する予備知識があったのには驚いた。日本語も速やかに覚え、「お点前頂戴致します」もきれいな発音であった。また、多くの欧米人が苦手とする正座も難なくこなしていた。もっとも、ある一定の時間内ではあったが。。
そのうちのひとりが興味深い質問をしてきた。何故、畳の縁(へり)は踏まず、避けて[またいで]歩くのか、というものであった。一般家屋において畳の縁を避ける理由は、1)構造上痛みやすい箇所だから、2)(かつての武家屋敷などにおいて)忍者が床下から縁の隙間をねらって刀を刺したことの名残から、3)縁は高貴さの象徴で、紋様入りのものなどがあったから、4)かつての縁そのものが高さがあり、つまづかないようにしたから、等々があるとされている。筆者は、茶道の精神にある5)(客と主人、神聖なる世界と俗世間などとの)結界[境界]としての意味があり、それを避けるため、という説明をした。茶扇子の扱いに関しても、同様の説明をした。我々が当たり前のように、何気なくふるまっている行為なり、所作なりに対しても、異文化からの目から見ると疑問に思うようだ。こうした客観的な指摘というものは、国際交流ならではのことである。有難いことだ。■
2013年12月2日月曜日
2013年12月1日日曜日
日英言語文化小論(22)【もてなしとhospitality】
■今年の流行語の1つに「お・も・て・な・し」があげられ、しばしばメディアでも取り上げられている。東京五輪招致で見られた中丸付のものではなく、本来の「おもてなし」は、「持て成す」に、丁寧語の接頭辞「お」が付いたものだ。「持って」、「成す」とは、「(あるモノ、コトを)する、扱う」といった意味である。また、「表裏なし」という含みもあるようだ。こうした意味概念をもって、「(他者に対して)(表裏なく心から)接する」という意味が醸成されてきたものと考えられる。
一方、和英辞書では「もてなし」の英語相当語としてhospitaityが取り上げられることが多い。そのhospitalityは、1) friendly and generous behaviour towards guests、2) food, drink or services that are provided by an organization for guests, customers, etc....(Oxford Advanced Learner's Dictionary)とある。 1)では、客に対する行為が含まれるということである。2)は、(消費者に対する)飲食サービスが内包されている。実際、英語文化圏的発想のserviceとは、「・・・個人や社会に対する「奉仕」、コミュニケーションを主とする「接客」が原義であり・・・公共のために何かを尽くしたり、他者に役に立てるような行為を実践したりするのがserviceなのである」(『100語で学ぶ英語のこころ』、p.88.)とある。こうした点から、serviceを意味成分として含意するhospitalityには、他者が喜んだり、心地よく感じたりするような、(しばしば)可視的な行為の実践が、その中心的意味概念のように考えられる。
しかしながら、「(お)もてなし」は、必ずしも可視的な行為の実践がすべてではない。例えば、
「モノを大切に扱うことや、大事にしまうことを、文化にまで高めたのが礼儀作法や茶道、華道であり、裕福な階層の人が身につけるべき教養の1つでもありました。」
(「挫折しない整理の極意」松岡英輔著、新潮社、2004年)
にあるように、日本文化(の美徳)にまで高めた礼儀作法としての茶道では、(ある意味)可視的ではあるが、しばしば見落としがちな部分にも「心入れ」や心配り」がなされている。履物が踏み台から離れていれば、ほんの少しだけ(客の方へ)傾けること、 夏の暑い日であれば、縁高菓子器などの蓋上に数滴水を落とすこと、寒い冬であれば、なるべく冷めないように、(薄茶であれば)いつもよりさっと点てるようにすること、などうっかりすると気が付かないような気働きはたくさんある。
このように、他者に対して明確で、可視的な行為を主とするhospitalityに対し、(時に)見落としがちだが、他者にとっては心地よいことを含む対応も大切な要素となっているのが「(お)もてなし」ということになろう。話は戻るが、メディアで注目された五輪開催地決定のIOC総会での(個人的には)不自然に感じた東京のプレゼンターの笑顔だけが「お・も・て・な・し」ではないのだ。むしろそうした笑顔は日本文化的には苦手とする方が多いだろう。無理に欧米的なhospitalityの実践としての(つくり)笑顔をすることもないように感じる。大切なのは上述したような(気が付かない、(時に)不可視的かもしれない)「心入れ」や「心配り」を”それとなく”伝えることである。そして、そうした「心入れ」などを”それとなく”伝えることも日本文化的な「(お)もてなし」の構成要素であるということを知って[共有して]もらうことも必要だ。特に、言語に依存する低コンテクスト文化と分類される欧米諸国の方々であれば、こうした点を理解することは容易いことではないであろう。だからこそ、国際交流というものは難しく、且つ興味深いのだ。■
日英言語文化小論(21)【武士道と行動美学】
■「きれいさびという様式美を求めた時代があった。きれいさびとは、武士の生き方を静謐な茶道という作法の中で語り尽くし、実行させる行動美学であった。」
(「感性の言葉としての形容詞」川﨑和男著、アスキー社、2004年)
これは、武士の生き方を茶道を介して伝えるということである。つまり、この「道」には、(武士の)生き様という意味成分が含まれていると言える。一般に「きれいさび[綺麗寂]」とは、茶人・小堀遠州が確立した寂の中にも華やかさや優美さを取り入れた美意識であり、茶風であると言える。用例中では、行動美学と捉えられており、この意味において「道」は、(武士に)望ましい、ふさわしいとされる在り方や生き方を茶の湯を介して培うということになろう。
一方、武士の行動美学を批判的に捉える見解もある。
「自分を大事にすべきではなかろうか?日本人の意識の中には、こうした誤った宿命感と武士道的な生命に対する淡白さがありすぎるのである。」
(「昭和暗殺史」森川哲郎著、毎日新聞社、1994年)
切腹に代表される武士の自決行為を、行動美学としてではなく、命の尊さという観点から否定的に見ている。このあたりは、西洋的思想の影響も窺える。例えば、キリスト教[旧約聖書]の平易な解説問答集Catechismにおけるsuicideの項が参考になる。
Suicide
2280:Everyone is responsible for his life before God who has given it to him.
It is God who remains the sovereign Master of life.
We are obliged to accept life gratefully and preserve it for his honor and the salvation of our souls.
We are stewards, not owners, of the life God has entrusted to us.
It is not ours to dispose of.
It is God who remains the sovereign Master of life.
We are obliged to accept life gratefully and preserve it for his honor and the salvation of our souls.
We are stewards, not owners, of the life God has entrusted to us.
It is not ours to dispose of.
キリスト教[旧約聖書]的には、命の所有者はGodであって、stewad(s)[世話係、(単なる)管理者]である我々には、自殺を含む命の選択をすることはできない、という考えである。■
日英言語文化小論(20)【茶道とWay of Tea】
■これまで茶道を指す英語表現として、”tea ceremony”とする書籍等が見られるが、不完全であるがゆえの自然さに満ちた「無」や「空」の中に、茶道の本質の一端である「侘び」があり、単なる儀礼的行為を意味するceremonyではなく、(「無」や「空」の)(茶道の)心へのpathとして”Way of Tea”をあてることで、茶道を英語的に映し出すことができるといえよう。
…That is why it is called a ‘path’ (michi, or do)…Not the kind of
path you walk on, but a path of the heart and mind. And this is why we translate “chado” as “Way
of Tea.” It is not a “tea ceremony.”
この点から、茶道における「道」を観察する場合、単に点前に着眼にするだけではなく、不完全なあるがままの姿、すなわち自然であること、そしてそれは単にしつらえのみならず、亭主と客の心の中が自然(禅宗的には「無」や「空」)になるための「道」であり、辿るべき方向と言えよう。■
日英言語文化小論(19)【武士道とSamurai Spirit】
■武士道であるが、しばしば”samurai spirit”と表現されることがある。この場合、「道」に相当するのがspiritであるが、spiritには、mind, feeling, character, courage, determination, attitude, soulなどが意味成分として含意され、主要英和辞典において対訳とされる「精神(性)」や「気質」に依るものと考えられる。この意味において「武士道」の英語相当語として”samurai spirit”には、大きな意味的なズレがあるとは言えないが、”samurai”の生き様を理解できていないようであれば、その意味の本質を捉えることは困難であろう。この他、武士道と対比されることの多い騎士道にあたる”chivalry”は、”polite and kind behavior that shows a sense of hour, especially by men towards women”や”the religious and moral system of behavior which the perfect KNIGHT was expected to follow”と定義される。この点から、「道」と”spirit”、”chivalry”との関連性から、一部の社会階層における「道」には、そこに属する集団がとるべき行動規範を指しているということが窺えるであろう。■
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【お知らせ】研究ブログを移動しました!
本研究ブログの容量がいっぱになりましたので、新研究ブログを立ち上げました。 心機一転、研究ブログを再開したいと思います。引き続きどうぞよろしくお願いします。 新研究ブログは こちら
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