2012年9月30日日曜日

成長のカタチ


■先日、学生が研究室に手土産を持って、立ち寄ってくれた。無事に夏期インターンシップを終えたという報告を兼ねて、挨拶に来てくれたようだ。その学生とは、教員として出会ってからもう6年になる。思い出せば、入学当初は1つ1つ、それこそ「手取り足取り」指導したものであったが、今では、外部の組織に身を置きながら、単身研究に励み、多くを学ぶまでになったようだ。頼もしい限りである。しかも、帰り際には、世話になった(と本人が感じているであろう)教員への手土産まで買い求めるようになった。派遣先の地元銘菓であった。
 基本的に、筆者は(当然のことだが)学生に自分の専門分野を教授している。この学生に対しても同じである。あえて、それ以外のことを教授した記憶はない。もっとも、教育の場以外での会話の一端を学生自身が汲み取り、自分の中で咀嚼したのかもしれない。 とにかく、インターシップ終了後には、手土産をもって教員のところに挨拶に行くものだ、などと言った覚えはないし、そういうことを言うつもりもない。
 今回学生自身が不可視的な「感謝」や「礼」といった概念を、可視的に表現しようとしたカタチの1つであると筆者は捉える。そして、そうしたことを学生自身が自ら学びとった、感じとったことに<ヒト>としての成長が窺える。 そうした成長の一端を共有できること、それが何よりの喜びであり、次なる教育への情熱の糧となる。こちらこそ、学生諸君の成長に感謝したい。
 現在"On Diet"の身ではあるが、学生の成長を“味わい”ながら、おいしくいただこうと思う。■


2012年9月13日木曜日

On Diet


◆先日の投稿で、現在リハビリを兼ねてトレーニング中であることに触れたが、ここ数日その成果が数値として明確に現れてきたようだ。勤務先である教育機関の前期日程が終了する頃から少しずつトレーニングを始め、今日で1ヶ月半程度になる。当初、骨折の影響もあってか、骨折部のある左足を中心に、筋力が相当落ちていた。それゆえ、ちょっと速めに歩く[ウォーキング]だけでも、骨折部以外の膝や付け根部に負担がかかり、そうした部分を痛め、思うようにトレーニングが継続できなかった。
 筋力トレーニングと同時に、骨折により、いわゆる「なまった」体を再び引き締めるためにも、食事の見直しも行っている。筆者は飲酒喫煙とは縁がないものの、糖分は比較的多く摂取する食習慣があった。食後の口直し[デザート]はもちろんのこと、水分補給も糖分を含むソフトドリンクを好んで飲むことがあった。運動の機会が奪われた中での、こうした食習慣の継続は、必然的に体を「蝕んで」いった。その結果は、締まりのない体、ということだ。学生時代から相当な運動量を要するスポーツに関わってきたこともあってか、それなりの体型は維持してきたつもりではある。それでも40代に入り、そうしたトレーニングの貯金も使い果たしてしまったのかもしれない。情けないことに、衣服、とりわけパンツ[ズボン]類は、サイズアップを余儀なくされた。健康診断の数値も悪化した。
 目に見える体型の変化と黄信号を照らしている数値は、筆者を筋トレと食事の見直し[制限]の実行に駆り立てるには、十分なものであった。
 強い動機付けの中で始まったダイエットであるが、約6週間が経ち、(個人情報なので具体的な数値は避けるが)体重3.5キロ減、体脂肪率3%減、内臓脂肪レベル値1.5減(標準値内)、体年齢(?)4歳減(実年齢2歳減)等々と、明らかに数値が改善された。また、(お恥ずかしい話ではあるが)これまで腹部をへこませてはいていたズボン[パンツ]類も、拳1つ分が入るまでに戻った。特に、体重が減ることで、上掲したように、骨折部以外の箇所への負担が軽減され、それゆえトレーニングの継続が大分楽になった。それに加え、油を使った肉料理から蒸し野菜料理に変え、食事摂取時刻と炭水化物摂取量の制限、糖分を(多く)含むデザートやソフトドリンク類を排除するなど、食生活の見直しの成果により、当初の目標値をほぼ達成できたと言えよう。
 これまでも機会あるごとに触れてきているが、バランスの良い食事と運動により、「健康的な生活習慣を達成する」という意の英語のdiet*を無理なく実践できたことを大変嬉しく思う。せっかく適正な生活習慣が身になってきたので、このまま継続、すなわち“on diet”でいこうと思う。◆

*山岸勝榮(明海大学教授)著『100語で学ぶ英語のこころ』(研究社刊)pp.60-61.



2012年9月10日月曜日

日英言語文化小論(4)【コンテクスト】


■前回の投稿で、学生と教員とのコンテクストの差、すなわち「低コンテクスト文化」の一面について触れた。それはそれで決して好ましいことではないが、言語文化的には興味深い点を映し出している。これまでも、日本語文化圏は、言語よりもその言語が運用される環境に依存した(文化人類学者Edward Hall氏が提唱する)高コンテクスト文化であることを指摘しているが、先の教育環境においては、いわゆる「以心伝心」のような概念は共有されておらず、明確に学習態度を正すための何らかのメッセージが必要である、という(言語を伴った)状況に依存したコンテクストが支配していたと考えられる。これはやや粗い解釈とは思われるが、言語学者Michael A.K. Halliday氏が提唱するSituational context(状況的コンテクスト)に相当すると言えよう。Halliday氏は「選択体系機能言語学」の第一人者であり、(おおざっぱではあるが)言語はそれが運用される状況と親和性が高く、有機的に結びつきながら、ヒトは状況に依存する言語(情報)の意味を醸成したり、理解したり、共有したりしているという立場をとっている。
 Hall氏のコンテクスト文化が言語と思想、信念、価値観等のヒトの社会的営みの根拠となるべき深層要因との関連性に注目しているのに対し、Halliday氏の状況的コンテクストは(実際の)状況や社会活動といった表層要因と連動しながら言語(情報)の解釈が変容しているという点に注目している。
 お二人の言語と文化の関連性に関する理論の一端を拝借しながら融合すると、文化的環境に依存した高コンテクストな日本語文化圏ではあるが、特定の教育現場では、「目線をあわせる」という情報伝達行為には当該学生の態度を正すという意味的解釈はもはや存在してはおらず、(時代の変容のとともに)言語表現によって明確に指示する必要性が学生と教員に介在している状況的コンテクストが構築されている、ということであろう。そして、無数の状況的コンテクストが存在し、それぞれ言語に依存したコンテクストもあれば、状況に依存したコンテクストもあり、総体的には状況[環境]に依存したコンテクストの方が優勢なのが現代の日本語文化圏である、ということなのであろう。
 (嘆かわしい)教育現場の現状に、文化人類学と言語学界にそれぞれ多大なる影響を与えた学者の理論の一端を持ち出すのは、大変失礼なことなのかもしれないが、これもコンテクストの実例ということで、お許し願えると思う。■


2012年9月9日日曜日

日英言語文化小論(3)【以心伝心】


■日本語では、しばしば「察する」、「配慮」、「気遣い」、「言わなくても分かるよね」、「空気を読め」といったことが求められることが多い。「口は災いのもと」であり、「目は口ほどにモノを言う」ように、あえて言葉にして「角を立てる」よりも、目やその他の雰囲気から自分の気持ちを伝えようとしたり、相手の意図を汲んだりしようとしたりする言語文化的特性が存在する。それでは、そうした日本語の言語文化的特性はどういうものであろうか、もう少し掘り下げてみたい。
 上掲したような状況は、しばしば「以心伝心」という4字熟語で表現されることであろう。「以心伝心」とは、仏教用語の1つであり、禅宗の経典「六祖壇経」にある「法即以レ心伝レ心、皆令二自悟自解一」や、燈史[歴史書]である「景徳傳燈録」の中の「仏の滅する後、法を迦葉[釈迦の弟子の一人]に対し、心を以て心に伝う」の中にその教えが見てとれる。つまり、仏法の教え[神髄]を師から弟子へ伝える際のその様を表している。
 こうした仏教の教えに加え、日本の生活形態も「以心伝心」の精神に影響を与えてきたと考えられる。(大くくりではあるが)欧米の移動型狩猟牧畜文化に対し、日本は定住型農耕稲作文化であり、人間関係よりも、周囲の環境[自然]との関係性の方が重要であったと推測される。四季が比較的明確に存在し、特定の人々と定住しながら[ムラ社会化]、協働で稲作に従事する生活においては、その多くが共有されていたことであろう。つまり、生活の糧としての「コメ」の収穫という絶対的な共通項[目標]があったわけである。そのためには、他者との(言葉による)無用ないざこざを避ける方が賢明であり、周囲の様子から学んだり、態度や行動で教え[伝え]たり、相手の顔色を窺がうことで、その気持ちを察したりするという、今で言うところの(日本的な)コミュニケーション力を発達させてきたのであろう。いわゆる文化人類学者Edward Hall氏が提唱した文化モデル「高コンテクスト文化」に分類されるということである。日本語文化圏のように、思想、信念、価値観、その総体としての文化の多くが共有されているような文化的環境を指して「高コンテクスト文化」とし、欧米諸国のような、言語に依存する割合が高いような文化的環境は「低コンテクスト文化」とされている。
 これはあくまでも、筆者固有の言語文化的環境なのかもしれないが、本務校の一部の前期担当科目中において、「おしゃべりはやめなさい」、「ケータイ[スマホ]はしまいなさい」と学習態度を正すという行為を言語に依存しなければならない環境にあった。単に学生の方を見て、目を見ただけでは(俗に言う「睨みをきかす」)学生の肯定的な反応は得られなかった。仮にHall氏の文化モデルを支持するのであれば、同じ高コンテクスト文化にあっても、特定の教育環境は、低コンテクスト文化によって支配されていた、ということを認めざるを得ないことは、極めて残念なことである。我が国は、もはや純粋な高コンテクスト文化などではなく、高低混在のコンテクスト文化に変容したのであろう。■





2012年9月7日金曜日

日本メディア英語学会第2回(通算第54回)年次大会


 下記の日程で、一般社団法人日本メディア英語学会[JAMES]第2回(通算第54回)年次大会が開催されます。メディア英語を主たる研究対象とする研究発表および実践報告、基調講演等が行われます。なお、詳細は学会ホームページにてご確認ください。

【日本メディア英語学会第2回(通算第54回)年次大会】
日時:平成24年10月13日(土)10時受付開始
会場:神田外語大学(千葉市)




日本メディア英語学会は、平成23年4月、日本時事英語学会より名称変更いたしました。


2012年9月4日火曜日

老いる


 「老いる」などというタイトルにすると、何か「死」を付帯的に連想されるだろうが、英語では、単に"get old(er)"や"age"(動詞)などと表現するであろう。つまり、1歳の幼児が2歳になっても、10歳の少年が11歳になっても、23歳の青年が24歳になっても、55歳の壮年が56歳になっても、皆一様に"get older"であり、"age"なのである。もっとも、"age"には、「熟成する[させる]」や「枯らす」、「ふける[老けさせる]」など、生あるものの後半以降に意味的な焦点をあてることがある。その点において、"age"は、日本語の「老いる」に近いニュアンスであろう。
 日本語母語話者の多くは、「老いる」に「死」が付帯するであろう。つまり、「老い」ながら、歳を重ねるその延長線上に「死」があり、その「死」というものを意識する、ということである。「老いる」ことは、これまでできたことができなくなったり、体の一部に障害が発生したりする、ということを顕著に感じる時である。それが「死」への兆候と判断してしまうのであろう。
 このように考えると、1本の水平線を描き、左のendを誕生、右のendを死として生あるものの一生を具象化した場合、(あくまでも筆者の直感ではあるが)"age"はその線の3/4以降を、「老いる」は5/6以降ぐらいをその意味的対象にしているような印象を受ける。やはり、「老いる」の方が右のend、つまり、「死」に近い位置付けになろう。
 筆者も「老いる」を感じた。すでに本ブログでも取り上げたように、昨冬不注意にも足を骨折してしまった。人生初の骨折である。これまで一度も折ったことのない自分の骨が折れたことにより、骨の劣化[老化]が起きているのではないか(いや、確実に起きているであろう)、そうした悲観的な意識が心の中で醸成されていった。これこそが負の感情である。折れた足の痛みなどよりも、数倍、いや数十倍にこの心の痛みの方が辛かった。
 いまでは、時折患部周辺が痛むものの、完治したと言えるであろう。弱った筋力を回復するためのトレーニングも始めている。そして、トレーニング中に強く感じたことがある。それは、主に筋力回復のためにトレーニングを開始したのだが、いまではこれまで以上に強くなりたい、そして健康であり続けたい、ということを意識するようになったのである。これはおそらく、守るべき存在がある、筆者の存在とその健康を願ってくれている存在がいる、という意識が筆者の心の中で(ふたたび)芽生え始めてきたからであろう。20代、30代の頃は、強く、健康であることが当たり前で、意識する必要性すらなかった。それが40代となり、骨折を機に「老いる」を目の当たりにし、「死」ではなく、「強さ」や「健康」を明確に意識するようなったという心の変容である。ある意味、それは「心の進化」とも言えるのではないであろうか。来年もまた、1歳[年]、「老いる」ことになるが、もうひとつ[本当]の「老いる」を感じるその時まで、いつまでも「強さ」と「健康」を意識し、守るべき存在のために「生」を求め続けたいと思う。



【お知らせ】研究ブログを移動しました!

 本研究ブログの容量がいっぱになりましたので、新研究ブログを立ち上げました。 心機一転、研究ブログを再開したいと思います。引き続きどうぞよろしくお願いします。 新研究ブログは こちら