今週、本務校の研究紀要への拙論を脱稿し、編集担当者に無事提出することができた。「言語文化論―道に関する考察」と題する拙論は、分析対象語となる「道」には,物理的な通行路のほか,「人が考えたり行ったりする事柄の条理・道理」,「てだて・手法・手段」,「方面・分野」といった辞書的な意味があり,「道」と連結する前置要素を3つに大別し、それらの代表語を精査することで,「道」に関する言語文化的特性を見つけ出そうと試みたものである。まず,第1に,「道」の前置要素が社会集団である場合,行動規範や道徳観・倫理観として,その社会集団の在り方や,(そうあるべき)態度や姿勢を(時に厳格に)表すということだ。仮に「(そうあるべきこと)」の体現を「美」とするならば,「道」には,「行動美学」という一面も含まれるであろう。次に,「道」は,学問や文芸と結びつく傾向も強く,自然界との調和などを意識化しながら,茶道に代表される「侘び(寂び)」のように,より高い次元へと精神性を引き上げようとする姿勢が含まれるということである。礼儀作法はそうした精神性の再現と言える。そして,最後に,森羅万象の<ソトの世界>を“言葉”によって切り出し,その切り出された“言葉”を辿ることで,<ソトの世界>を再構築し,人々の<ウチなる心>と結びつけるのが「道」ということである。つまり,「武士道」における「切腹」という死生観,「人道」における「食糧支援」,「茶道」における「もてなし」や「気働き」,「神道」における御神体への「注連縄」などは,「行動規範」であり,「道徳意識」であり,「精神性」であり,それらの総体としての日本の「文化性」であり,<ウチなる心>と<ソトの世界>とを結びつける立体化された「道」の一端なのである。
この意味において,「道」とは,我々を取り巻く(森羅万象の)<世界>の断片をそれとして知覚し,認識する対象であり,その対象世界を体系的に捉えようとする世界観の外化でもあると考えられる。人々は,そうした「道」を感じとりながら,言語によって秩序付けられた文化的な日々の営みをおくっているのである。
一昨年、筆者にとってかけがえのない人が、現世でのその歩みをとめ、『道』という“標”を遺し、旅立っていった。そして、魂の入れ替わりのように、新たな命の『道』を授かった人が筆者のもとへと舞い下りてきた。そして、筆者にとってかけがえのない人となったその人は、今日その『道』を歩みはじめて2年という時間を迎えることとなった。かけがえのないその人は、これからの歩みの中で、いろいろな<ソトの世界>に触れ、<ウチなる心>を感じとっていくことであろう。その人の『道』がどれほど長く、どれほど広く、どれほど豊かで、どれほど険しいものになるかは分からない。それでも、筆者の命の『道』が続く限り、その人と同じ『道』を感じていきたいと切に願うばかりである。
『道』
かけがえのない人の名前が記されている。(些細なことかもしれないが)これもその人の『道』の証しとなろう。ちょっとしたケーキ屋さんの心遣いである。ダイエット継続中ではあるが、今日だけはかけがえのないその人の『道』の一端を味わおうと思う。