2013年12月1日日曜日

日英言語文化小論(21)【武士道と行動美学】



■「きれいさびという様式美を求めた時代があった。きれいさびとは、武士の生き方を静謐な茶道という作法の中で語り尽くし、実行させる行動美学であった。」
(「感性の言葉としての形容詞」川﨑和男著、アスキー社、2004年)
 これは、武士の生き方を茶道を介して伝えるということである。つまり、この「道」には、(武士の)生き様という意味成分が含まれていると言える。一般に「きれいさび[綺麗寂]」とは、茶人・小堀遠州が確立した寂の中にも華やかさや優美さを取り入れた美意識であり、茶風であると言える。用例中では、行動美学と捉えられており、この意味において「道」は、(武士に)望ましい、ふさわしいとされる在り方や生き方を茶の湯を介して培うということになろう。
 一方、武士の行動美学を批判的に捉える見解もある。
「自分を大事にすべきではなかろうか?日本人の意識の中には、こうした誤った宿命感と武士道的な生命に対する淡白さがありすぎるのである。」
(「昭和暗殺史」森川哲郎著、毎日新聞社、1994年)
 切腹に代表される武士の自決行為を、行動美学としてではなく、命の尊さという観点から否定的に見ている。このあたりは、西洋的思想の影響も窺える。例えば、キリスト教[旧約聖書]の平易な解説問答集Catechismにおけるsuicideの項が参考になる。
Suicide
2280:Everyone is responsible for his life before God who has given it to him.
It is God who remains the sovereign Master of life.
We are obliged to accept life gratefully and preserve it for his honor and the salvation of our souls.
We are stewards, not owners, of the life God has entrusted to us.
It is not ours to dispose of.
 キリスト教[旧約聖書]的には、命の所有者はGodであって、stewad(s)[世話係、(単なる)管理者]である我々には、自殺を含む命の選択をすることはできない、という考えである。■



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