2013年5月26日日曜日

日英言語文化小論(14)【scoop and spoon】




先日の授業で英語レシピを取り上げた際に、”tsp””tbsp”が出てきたので、それらを説明した。”tsp“は、”tea spoon”で、”tbsp””table spoon”のことであり、前者は「小さじ」、後者は「大さじ」に相当する。ここで気になったのが、”spoon”である。一部の学生から茶の湯で用いる茶杓の英訳について質問があったからだ。”spoon”の語源は、”shave””chip”であり、「削り取る、薄く切る」という意味である。一方、茶杓は”tea scoop”とすることが多いが、その”scoop”の語源は、”bail (out)”であり、「かき出す、くみ出す」ということである。ここで、茶の湯の<世界>に触れている方であればピンとくるであろうが、お稽古では、棗や茶入れ(抹茶用容器)から抹茶を「(例えば)一杓すくい出して・・」と言う。また、棗や茶入れの拝見の際にも、残っている抹茶のすくい出された具合を「景色」として楽しむのである。つまり、茶杓を用いて抹茶の山から、ある程度カタチとなるように掘るような感覚ですくい出すのだ。こうした点から表面をさらっと取るというニュアンスのある”spoon”ではなく、(ある程度)しっかりとすくい出すという意の”scoop”を用いた”tea scoop”が茶杓の適訳ということの説明がつくであろう。
 確かに日頃スプーンに慣れ親しんでいれば、茶杓ですくう所作が砂糖やコーヒー等をすくう動作と似ているので、見た目やその用途からも、”tea spoon”としたい感覚は理解できる。このあたりは語源等を調べることで解決のきっかけがつかめる。興味深いことだ。なお、日本でも人気のあるアイスクリームショップ・サーティワンアイスクリーム*のようなアイスのひとすくいも”(single) scoop”であり、アイスを丸めるようにすくい出す器具を”ice-cream scoop”と言う。■

*昭和48(1973)12月、()不二家が米国のBaskin-Robbins社との合弁事業を行う目的でビー・アールジャパン()を設立したのがはじまり。


茶の湯のことば―懐紙




■お茶席では「懐紙」は必需品である。茶碗の口元を拭ったり、菓子をのせたり、さまざまな用途がある。洋服が主流となり、「懐」がなくなった現代社会においても、「懐紙」は使い勝手がよい。例えば、食事の席で、おかず等を手で受けながら[手皿,手盆]口元に運ぶ方を見かけるが、本来これはおすすめできるものではない。口元からこぼれ落ちた際に、手を拭う動作が見苦しいと判断されるからであろう。「そんなことは気にしない」と言われてしまえばそれまでだが、手皿をするようなマナーを意識している(であろう)方であれば、よりスマートな所作を心がけたいものだ。そのような時に便利なのが「懐紙」である。「懐紙」をさっと取り出し、受け皿として使うことができる。こぼしてもそのまま一番上の懐紙をとって包み隠すことができる。* また、おしぼりやナプキン代わりに使えるほか、ちょっとした取り皿代わりとしても用いることができる。さらに、折りたたむことで飲み物のコースターとしても可能だ。魚の頭部や骨の食べ残しが汚らしいと感じる場合は、懐紙で隠すようにすることもできる。懐紙はしっかりとした和紙でできているので、菓子類のお持ち帰り用の袋[ポチ袋]代わりにもなる。
 懐紙ひと束は1帖、2帖と数え、通例130枚入りで100150円程度である。また、男性用・女性用の別があり、男性用はひとまわり大きいつくりになっている。懐はなくとも、帛紗ばさみなどに収め、(紳士淑女のたしなみ?としても)常備したいものである。■

*通例「懐紙」は1帖(ひと束)取り出し、臨機に1,2枚ごとめくり取るように使うと良いであろう。その際、わさ(折り目側)を手前にすると良い。お茶席ではわさを手前に横にして菓子をとる。


2013年5月25日土曜日

日英言語文化小論(13)【busser(s)】




■いま北米、特にノースダコタ州は、シェールガスによってもたらされている収益や雇用により、大変潤っているそうだ。さながら、ニューゴールドラッシュのようだ。ある番組では、2DKの賃貸アパートが月30万円相当になるなど、住宅供給が追い付かないほどの状況らしい。それだけヒトとカネが動いているということだ。当然シェールガスに従事する方用のサービス産業もにぎわうことになる。ノースダコタ州の失業率は1%を切るほどだ。そうした中で、シェールガス採掘場近くのあるレストランで、

Now Hiring Servers and Bussers

という求人広告を見かけた。上記のserver(s)は、従来用いられていたwaiterwaitressに代わり、PC[political(lly) correctness](政治的妥当性)の観点から、性差を醸成しないような配慮として生まれた表現である。一方、busserも同様な流れの中で、かつてのbus boyに由来する語であり、動詞busには「テーブルから食器類を下げる」という意がある。そのbusserとは、serverの補助[アシスタント]として、食器を下げたり、皿洗いなどの(きつい)仕事も担当したりする従業員のことを指す。主にアメリカで用いられる表現と言えよう。英和辞書類では、「給仕」の意でのserverが収録されるようになっている現在、同様にbusserもそろそろ取り上げられるべきと思う。(busserを収録している辞書は少ない)
なお、最近の日本の求人募集欄を見ると、「ホールスタッフ」や「サービススタッフ」としているところが多い。「ウェイター」、「ウェイトレス」、「スチュワーデス」等の性差に関する言語表現上の諸問題については、拙論「言語と文化の不可分性―職業名の場合」(『ふじみ』通巻第21号、平成1112月)で考察している。■


*上述のノースダコタ州の求人広告とは関係なし。



2013年5月23日木曜日

茶の湯のことば―お相伴させていただきます


■茶会における主たる[最上位の]客のことを「正客」(しょうきゃく)と言い、その連れの客(正客と一緒にもてなし受ける客)のことを「相伴」(しょうばん)と呼び、正客の相手をつとめ、同様にもてなしを受ける、という意味としても用いる。
 お茶席では、まず正客に(濃茶であれ、薄茶であれ)お茶が出されるわけだが、次客(正客のとなりに座る二番目の客)がいただく際に、正客(通例右隣)と自分との間(縁(へり)の内側)に御椀を置き、そこで「お相伴させていただきます」とひと言かけてからいただくことになる。
 相伴とは、正客の連れとなる[同席する]客であり、「相客」(あいきゃく)とも言う。これは、利休七則にある「相客に心せよ」の「相客」である。つまり、同席した客同士、互いに気配りや思いやりを示し、心の通じ合いを大切にしなさい、といった意味が含まれているのであろう。「縁(えん)」や「一期一会」にもつながる考えである。
 「お相伴させていただきます」、こうしたひと言も声をかけた相手(正客)に対する心遣いであり、(もてなしを)ご一緒させていただきますということの確認であり、感謝の気持ちの一端であるとも言えよう。日本語による心豊かな通い合いである。■



2013年5月22日水曜日

茶の湯のことば―水菓子


■今日の東京は夏の暑さのようであった。それでも、学生との知のエネルギーの循環・交換は、明日への新たな生の源となることを感じる。
 さて、そうした1日を過ごしたあとには、水分を欲する。そんな時にはほどよく冷えた果物などは最適だ。その果物のことを一般に「水菓子」ということがある。元来「菓子」とは、「果物」を指していたが、前回取り上げた茶菓子などの流入もあり、(定期的な)食事以外の間食で食するもの全般を「菓子」というようになったそうだ。そこで、練り物や饅頭等の(茶)菓子と果物を区別するために、後者を「水菓子」(水分を多く含む"菓子")と呼ぶようになったのであろう。
 最近では果物はフルーツとなり、水菓子という言い回しは聞かなくなった。それでも、茶の湯の世界では、上のお点前になるとお菓子が5種、7種と増えていき、その中に水菓子が含まれる。その他、夏目漱石の作品では、水菓子という表現が頻出する。果物やフルーツとはひと味違った涼を感じさせる表現だ。なお、こちらの通販サイトでは、スイーツ(洋菓子のことであろうか)、和菓子、水菓子を併記しているのが興味深い。■



茶の湯のことば―棹物(さおもの)


■茶の湯にはお菓子は欠かせない。通例薄茶には金平糖のような掛け物や落雁などの打ち物菓子を干菓子として、濃茶には蒸し物、練り物、流し物などの(半)生菓子を主菓子として出す。その主菓子の中で、棹状(細長い棒状)の菓子類を「棹物」と呼ぶことがある。一般的には「棹物」と言えば、羊羹のことである。有名な小城羊羹のサイトによれば、羊羹はその字のごとく、「羊(の肉)」入り「スープ[汁物]」*が中国から日本に持ち込まれた際に、具[肉類]を小豆や練り粉で見立てたのがその始まりとされている。その後、汁気が取り除かれるようになり、現代の羊羹になったということである。元々、舟と呼ばれた木箱で型をとりながら蒸し上げる製法であったため、舟には棹が付き物ということで羊羹のことを「棹物」と呼ぶようになり、数え方も「一棹」(ひとさお)、「二棹」(ふたさお)と言うようになったそうだ。最近では、羊羹は1本、2本と数えることが日常的になってしまったようだ。(類似のことがスーパーやコンビニのレジにおける「箸」でも起きていることだが・・)もしかすると、羊羹を購入する際に、「ひとさお、いただけますか」などと言うと、お高くとまっているような響きを醸成してしまうのかもしれない。そうした表現は「とらや」や「源吉兆庵」のような“場所”を選んで用いるのが賢明であろう。■


*熱い汁物のことを羹(あつもの)と言い、まさに羊羹の「羹」の語源となっている。最近の学生はその意味を知らないかもしれないが、「羹に懲りて膾を吹く」の「羹」と同じである。



2013年5月21日火曜日

日英言語文化小論(12)【as American as apple pie】


■今日も蒸し暑かったが、3コマ(90分×3)を無事に終えた。梅雨の気配を感じるころとなり、学生の様子も心なしかどんよりしているようだった。授業中の活気がやや落ちてきているようだ。話題に変化をいれてみようと思う。
 ところで、今日のトピックはアメリカの伝統的食文化[食材]であるappleであった。"An apple a day"から"apple cider"や"Adam's apple"あたりを日英文化の違いに触れながら話を進めた。その中に、"as American as apple pie"*があり、「(アップルパイのように)いかにもアメリカらしい[的だ]」という意味を説明した上で、これをJapaneseに置き換えた場合の例も考えてみた。

as Japanese as sushi

が(食文化限定ということであれば)一番しっくりくると思われる。同様に、イギリスであれば、

as British as shepherd's pie**
as British as Fish and Chips

ということになろう。また、フランスであれば、

as French as vinaigrette***

であろうか。イタリアであれば、


as Italian as pizza

となろう。これらはいずれもGoogle検索(筆者はコロケーションの“アタリ”をつける際に仮想のコーパスとしてGoogleを見立てている)で相当数がヒットしている。各国の食文化における「~らしい食べ物」、つまり、典型的な[ステレオタイプ的な]食べ物を知る上で参考となるであろう。いずれも興味深いものである。
 こうした言葉のセット、いわゆるコロケーションから、共起する語を調査することで、その言葉が運用される集団や(地理的な)空間を取り巻く文化の一端を知る手がかりが得られるということは、本ブログでも触れてきているが、その一例が"as *** as ###"であろう。ある程度分析をする必要があれば、###の部分の事象を類型化する等の処理を行えばよいであろう。今回は食文化という括りとして捉えられる。あとは、***に入る語に、国、社会、集団等をあてはめることで、典型的[ステレオタイプ的]な事例を抽出することが可能となろう。こうした分析考察は、分析対象への他者からの視点を知る手がかりとなり、時に(安易な)偏見を回避する一助にもなるであろう。この点において、さらに内容を掘り下げ、分析を精査することで、(メディア)リテラシー研究としても扱うことが可能と言える。■


*apple pieは、アメリカの伝統的家庭料理であり、いわゆる母の味と言われるほど各家庭に独特の味付け[風味]があるそうだ。また、スライスしたりんごをきちんと並べていく様子から、「きちんとしていること」を"(in) apple-pie order"とも言う。


**shepherd's pieとは、マッシュドポテトのパイで牛ひき肉を包んで焼くミートパイで、イギリス伝統家庭料理の1つに挙げられる。もちろん、イギリス移民との関係からも、"as American as shepherd's pie"という表現も見かけるが、通例イギリス的なパイと捉えられている。

***vinaigretteとは、日本では通例フレンチドレッシングとして普及しているものを指す。





2013年5月20日月曜日

茶の湯のことば―稽古とは一より習ひ十を知り十よりかへるもとのその一


■以前にも取り上げたが、千利休の教え[茶の心得]である利休百首におさめられているものに

稽古とは一より習ひ十を知り十よりかへるもとのその一

というのがある。これは、日々精進を重ね、一から十まで習ったとしても、またはじめての一に立ち返ることで、習得したことに磨きをかけたり、見落としていた箇所をあらたに見つけたりすることができるという教えである。つまり、一度さらっとお稽古をしただけで満足するのではなく、何度も復習することで体得していくことが大切であるということである。
 筆者は、まだまだお稽古を積む必要はあるが、初級(時に中級)レベルであれば、指導をすることがある。しかしながら、筆者程度のレベルであれば、こうした指導も(筆者にとっての)お稽古の一環となる。つまり、客観的に学生の所作に指導をいれることで、その際に頭が整理され、1つ1つの所作に対するより深みのある理解ができるようになるのだ。まさにこれも「・・十よりかへるもとのその一」の部分にあたろう。当たり前のようになってきている基礎的な所作も、必死に取り組んでいる学生に対して適切に指導することで、筆者自身も当時に立ち返り、指先のながれ、肘の角度、その流れの意味などをあらためて知るようになるのだ。
 こうした一面は、教育や研究の世界でも同じことが言える。筆者のようにその世界でそれなりの年月を重ねると、(否定的なニュアンスとしての)「慣れ」が生じてしまう。その「慣れ」は、確かに精神的な負担を解放してくれることはある。それでも、最小限の肝だけをおさえたものになりがちである。今年度から本務校で10年近く担当してきた科目を変更した。これもこうした理由からである。実際、その科目であれば、どこがポイントなのかはほぼ頭に入っており、テキストなしでも講義は可能である。一貫したポイントをおさえた教授法と言えなくもないが、見方をかえれば、マンネリ化した、単調な内容ということになる。気をつけないと単なる担当者の自己満足だけになってしまう恐れがある。それを懸念して、今年度からはこれまで担当したことのない科目を引き受けることにした。これも、十分授業内容を把握したので(十を知り)、新規科目に取り組む(もとのその一)ということである。科目名こそ違うが、英語教育、という括りにおいては同じである。
 あと何年、茶の湯と英語教育の「道」を歩み続けるかは分からないが、元気であるうちはこの教えを心に刻みながら、慢心することなく常に一[初心]に立ち返ることを忘れないようにしようと思う。■


2013年5月7日火曜日

茶の湯のことば―茶渋


■茶渋

「本日の御銘」
「薫風」・・・初夏の、青葉香る[薫る]、柔らかな(南)風■


【お知らせ】研究ブログを移動しました!

 本研究ブログの容量がいっぱになりましたので、新研究ブログを立ち上げました。 心機一転、研究ブログを再開したいと思います。引き続きどうぞよろしくお願いします。 新研究ブログは こちら