2012年11月25日日曜日

研究論文とは




■「研究論文」には、我々を取り巻く<世界>の中で、研究者が関心のある特定領域(<世界>の一端)に対する問題提起とその解釈(の一部)について、仮説や推論、先行研究への批判的考察、数値的検証を加えながら客観的妥当性を示し、論理的整合性を維持しながら、独自の見解や今後の検討課題を導き出すという点が含まれるであろう。
 その場合、前掲した「自然科学分野」における論文であれば、研究者が接触する、すなわち経験する<世界>を主に数字や記号で表現したり、再現しようと試みたりすることが多い。そして、数値化や記号化された<世界>を分析考察結果に基づいて再現可能な状態として記録、保存、共有することで知の体系化の基盤として蓄積していくことになる。そして、後進の研究者が先行研究としてそれらの研究を参照しながら、新たな問題提起、解釈、発見をしていくきっかけとなる。こうした一連の学術活動が人類の<進化>の一端を担っていると考えられる。
 同様に、「人文(社会)科学分野」の論文であれば、上述の<世界>を言語で表現したり、再現しようとしたりすることが多い。また、言語は外の<世界>の代替表現[符号]としてだけではなく、人の内なる思考、認識、感覚等の外化として記録、保存、共有、すなわち、ある「実態[]」とそれに接触[経験]する人の認識や解釈等に関する「知識」としての「情報」の主体にもなりうる。もちろん、数字や記号も、ある自然現象に関する“科学的”に集約された「知識」の主体として用いられている限り、「情報」の一端と言える。しかしながら、<世界>の一部としての現象を解明する数値化や記号化の分析過程は通例複雑であり、「情報」の圧縮率も高いため、その再現は、人の日々の営みにおいては、容易ではない。それゆえ、日常生活における「知識」としての「情報」の共有と伝達、広義の「コミュニケーション」においては、「言語」を用いることの方が都合がよい、いわば合理的である、ということである。この点から、人の営みに関する事象や社会現象に対する接触、考察、認識、その結果としての知識化は、基本的に「言語」によって構成されることになる。そして、「人文(社会)科学」における研究論文において、「言語」が分析考察の主たる構成要素であるということは、分析対象となる<世界>の“切り出し”が、「知識」としての「情報」の圧縮率が高い数字や記号を駆使した「自然科学」におけるそれよりも、大きいということである。また、その“切り出し”方も一定とは限らない。したがって、先行研究の参照・批判や数値的検証等による客観的妥当性の確保と論理的整合性の維持が重要となってくる。さもなければ、(客観性に欠ける)主観的な見解もしくは、単なる独り言の類になってしまう。それはそれで、日記のようなものであれば問題はないが、「知の体系化の基盤」として蓄積され、人類の未来に活用されるために、こうしたことは肝要である。その意味で、研究者というものは、過去と未来を紡ぐ<世界>の伝承者としての一面も備えていると言えよう。■


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