2012年11月24日土曜日

日英言語文化小論(6)【自然科学と人文(社会)科学】




■前掲したように、「・・・しかしながら、先の様々な自然現象の科学的論証や実験に基づく合理的実証への着想が、(秩序付けられた)人類の日々の営みの中で醸成される感性によって養われるということであれば、「科学」は「文化」の一部という見方もできる。この点は、「科学」が自然界の現象の体系的解明を主とする「自然科学」と、人類や社会の事象や概念を論証する「人文科学(社会科学)」との二分化(三分化)されることと関連があると言える。」という点に触れたが、「科学と文化」という枠組みの中で、「自然科学」と「人文科学(社会科学含む、以下同じ)」との分類についてもう少し考えてみたい。
 通例「自然科学」との対比として「人文科学」と言う場合は、それは研究[分析]対象によるものである。ある自然現象(の実態[])に関して(研究者の“科学的直観”により立てた)仮説による推論を合理的に実証し、普遍的法則性(と時に新発見)の記録と保存により、再現性が認められるような解明とその体系化は、「自然科学」と言える。数字や記号、それらを用いた公式などは、対象となる自然現象(の実態[])の(人為的な)代替コード[符号]であり、現象の再現に用いられる法則性の記録と保存に必要となる。
 一方、個々の生活におけるある事象や社会現象、その総体としての文化()現象に関して、主に言語を代替コード[符号]として充てることで、様々な文化()現象を分析可能な状態にしていると考えられるが、その言語を媒介として、現行研究となる文化()現象に関する(経験に基づいた)解釈と、先行研究との論理的整合性の検証(と時に新発見)が中心となるのが「人文科学」と言える。例えば、過去の文化()現象に関する法則性、換言すれば社会規範、慣習、マナー等を、言語を用いて記録、保存し、再現性が現代においても維持されているのであれば、それは「伝統」ということになり、今後の解釈や検証の根拠となりうる。最近では、言語学、特に英語メディアに表出された社会現象を分析対象とする分野において、言語を数値化し、その分析対象言語と共起する語との結びつきとその変容等の数値解析から、客観的妥当性を加味することで、(主観的になりがちな研究者の)解釈の検証過程において論理的に破綻しないような試みがなされている。
 このように、自然現象の主たる代替コードとして数字や記号を、文化()現象の主たる代替コードとして言語を、それぞれ用いて諸現象の法則性、規範、慣習等(の実態[])を解明し、再現可能な状態になるよう記録・保存することが「科学」(の一端で)であり、「自然科学」であれ、「人文科学」であれ、“科学的”実証[検証]の結果が蓄積され、共有されることが「知識」であり、一般的知識体系の構築が(“自然”との対比から)豊かな人の営みの為に必要な秩序化となる「文化」と言えるであろう。
 もちろん、「真理の追究」としての「科学は科学」であり、「(人の)欲求の実現」としての「文化は文化」である。両者は、我々を取り巻く<世界>に関する、異なる独立した体系的知識およびその構築活動[作業]という一面も窺える。むしろ、現代においては、そうした主に「自然科学」の真理の追究を志す者を「科学者」とし、「文化」を含む「人文科学」の研究者を「科学者」と呼ぶことが控えられているように感じる。
 それでも、(自然との共生・共存から)人が実態[]との接触を通じて得た感覚や認識、すなわち経験に基づいて、人為的な数字や言語を用いて我々を取り巻く森羅万象の<世界>を数値的に説明したり、言語的に意味づけしたりするということにおいては、「科学」は「文化」的活動の一端であり、「文化」は「科学」的探究にも支えられている、と考えられよう。この問題については、まだまだ考察が必要だ。(・・・続く)

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