2014年5月24日土曜日

日英言語文化論(29)【知覚・認知・意識】(三)


■一部重複するが、外界からの刺激[情報]を感覚器官で知覚し、”反応”としての観察による評価活動(この際、より強い刺激に、より大きな反応(注視等)が発生する)の中で、記憶との照合作業を経て、対象となる刺激[情報]を認知する。そして、こうした能動的[積極的]反応としての認知行為[(連続する)評価活動]があり、自覚、思考、判断といった(顕在)意識が”のぼってくる”ことになる。ここで、知覚の段階では点、線、角などの漠然とした像でしかなかった(現実と思われる)「実世界」の事象を自己[脳]の内に(主に言語を用いて)「実世界」の近似なものとしての<世界>を”再現”し、認識している。
 日々の営みの中で、不断の認知行為によって獲得したさまざまな「実世界」の事象を情報として記憶し、さらなる認知行為での再利用に備えながら、先の内なる主観的とも言える<世界>を、言語等を用いながら客観的実在としての《世界》を再再現することで、他者と共有できる物理的媒体を構築するのだ。
 しかしながら、ある外界の事象[実世界]を刺激として反応する際に、どの刺激にどれだけ反応するかは、ヒトの個体差があるため、再現される<世界>とそれに随伴する《世界》は同一ではなく、差異が発生することになる。これは、脳を含む神経系において何らかの刺激の遮断等が発生しているものと考えられるが、詳細は神経生理学や認知心理学などの専門書に譲ることにして、ここでは、基本的な考察に留めておきたい。
 ヒトには、知覚し、”反応”としての観察による評価活動の中で、記憶との照合作業を経て、対象となる刺激[情報]を認知する際に、そうした刺激を、記憶[経験とも言える]を参照しながら補正する働きを有している。こうしたヒトに生得的な働きは「知覚の恒常性」として知られている。それゆえ、認知的欠損ではなく、恒常現象により、再現される「実世界」の近似的な事象が<世界>のそれと、《世界》のそれとでは、ズレが発生することがあるのだ。さらに、ヒトは記憶との照合作業の際に、自己に都合のよい情報を(積極的に)参照することがある。こうした点は、確証バイアスや偏見・先入観などと言われる認知行為[思考・判断]である。加えて、ヒトは認知的不協和を解消するために、合理的判断を選択するという態度もとることがあり、(現実と思われる)「実世界」の刺激[情報]を、自己に都合のよいように歪められて<世界>や《世界》が再現されることがあるのだ。
 ヒトの生命活動としての知覚、認知、意識の中で、こうした「知覚の恒常性」や「認知的不協和」を解消するための(積極的な)「合理的判断の選択」によって動因される「実世界」と<世界>・《世界》とのズレ、もしくは認知上の(健全な)「錯覚」 が、「実世界」を主に言語によって再現を試みるメディア(英語)にも散在していることであろう。こうしたズレや錯覚の解明は、メディア英語学の研究対象と言えるであろう。■

日英言語文化論(28)【知覚・認知・意識】(二)


■時に「意識」とは、外界の事象に対する符号(通例言語)による紐付け、すなわち意味付けをすることであると言われる。前回触れたように、ある刺激を(感覚的に)知覚し、認知したということは、その刺激を過去の保存データ[記憶]と照合作業を経て、“反応”できる状態としての意味付けがなされたのであれば、意識していると考えられる。同時にそれは、(言語的意味付けによる)自覚、思考、判断という能動的[積極的]反応が可能な状態であるということを考えれば、(潜在的に対する)顕在的意識としても捉えることができよう。そして、連続する知覚や認知による保存された「記憶」、すなわち、”反応の定着”が得られた状態が無意識ということになろう。それは同様に、潜在意識とも言えよう。つまり、前回残しておいた「意識にのぼる」とは、外界の刺激を(感覚的に)知覚し、記憶の照合作業を経て認知した事象[現象]に能動的[積極的]反応としての自覚、思考、判断等が発生する状態と言えるのではないであろうか。■

 

2014年5月19日月曜日

日英言語文化小論(27)【知覚・認知・意識】(一)


■本ブログの主たるテーマである「言語と文化」の本質的理解をより深化させるために、生命科学の視点からも考察する必要があろう。そこで、言語と文化の獲得に係るヒトの基本的な構造について概観してみようと思う。(なお、本拙文は、今後の研究への備忘録的な意味も含まれる)
 まず、本ブログでは、外界をヒトの外部にある事象を、内界をヒトの内的事象[心象]とし、外界は他者と(近似に、又はある程度)共有可能であるが、内界は直接的には共有不可能とする。
 ヒトは日々の営みの中で、さまざまな外界からの刺激を情報として受容している。例えば、ヒトは、外界の刺激[情報]である光を(外)受容器である目で(感覚的に)知覚し、 角膜、水晶体、硝子体等を経て、網膜で結像し、(目の網膜で電気信号に変換され)視神経を通じて脳に伝達され、そこで外界を像として認知している、つまり「(モノが)見える」という状態になっている。我々はしばしばヒトが外界の像を見えるがままに受け止めている、と考えがちであるが、以上の点をふまえれば、受け入れているのはあくまでも刺激としての光であり、結像して、脳に伝達される像が、(ある意味)そのヒトだけに再現される像と言えるのだ。実際、我々は目の前の「実世界」(と呼ばれる事象)のあるがままを知覚し、認知しているわけではない。試しにカメラで撮影した像と比較してみるとよい。写真にはあるはずの像がない、ということがヒトにはおこりうるであろう。これは、より強い刺激(や変化)に対して注視[大きく反応]する(後述するが、「意識にのぼる」ということ)ことになるからであろう。当然いま見えているはずの「実世界」であっても、知覚し、認知できていない「実世界」の断片があるはずだ。それゆえ、ヒトの個体の数だけ、客観的な事実や事象、物理的現象としての「実世界」とは別に、「(実世界に)近似の世界」が存在しうるということになる。■


 

2014年5月18日日曜日

茶の湯のことば―貴人清次


■茶の湯の点前の1つに、貴人清次[きにんきよつぐ]というのがある。貴人とは、「高位な(官職にある)人」ということである。実際には、皇族、貴族、有力大名のほか、高僧等が含まれていたものと考えられる。清とは、前の貴人と同義であり、次とは、貴人の御伴のことである。つまり、貴人とその御伴の方にも茶を差し上げる点前である。
 興味深いことに、貴人には、通例(比較的)安価な白焼きの茶碗を白木の貴人台に乗せて茶を出すことになる。


 これは、高貴な方には、たとえ高価であっても、他人と使いまわす茶碗で茶を出すことはしない、つまり、使い捨て、と言う意味で、白焼き茶碗と白木の台を使用し、終了後、割って捨てることになる。したがって、不思議なことではあるが、御伴の方用の茶碗が高価であるということがおこりうるのだ。また、裏千家茶道では、貴人用茶筅は白竹であるが、お次[御伴]用の茶筅は煤竹である。したがって、貴人清次の点前所作では、貴人用とお次用で異なる箇所があり、その1つとして茶筅の使い分けがあるのだが、その使い分けをうっかりして忘れると、使い終わった貴人用でお次の茶を点てるといった無礼をおこなってしまうことがあるのだ。そのような時は「お手打ちだ」と揶揄するのである。(筆者が戦国時代の茶人であったのであれば、命がいくつあっても足りないくらいであったことであろう・・・)■



ことばと文化の一筆箋(19)「五月晴れ」と「さわやか」



■日曜の午後、心地よい風に誘われるかのように、散歩を兼ねて和菓子を買いにでかけた。上を見上げると、澄み渡る、さわやかな空が広がり、まさに「(梅雨前の)五月晴れのようだ」と心でつぶやいた・・・その時、はたして今が5月だから、快晴を「五月晴れ」と呼んでいいのか、それとも、もうすぐやってくる梅雨の時期に、つかの間の晴れの日こそが「五月晴れ」なのか、気になった。近所の和菓子司で目あてにしていたかしわ餅(個人的にみそ餡が好みだ)を買い求め、自宅で意味を確認した。
  広辞苑では、①さみだれの晴れ間、②五月の空の晴れわたること、と両方明記されている。NHK放送研究所でも、「新暦の5月の晴れ」の意味をもとは誤用であったとした上で、その誤用が定着したと指摘している。
[五月晴れの使い方は?](NHK放送研究所ホームページ)
http://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/gimon/097.html
 なお、上記サイトで、同様の誤用が定着(?)している他の事例として、「さわやか」を挙げている。それによると、「さわやかな」は 秋の季語であるそうだ。つまり、今日の東京の陽気では、思わず「さわなかな風薫る五月晴れの空のもと、、、」などとしたくなるところだが、日本語に繊細な方であれば、抵抗を感じることであろう。筆者自身の無学さを恥じ入るとともに、これを機に、日本語表現に気を付けたいと思う。
 これは、余談であるが、かしわ餅には一般に小豆餡とみそ餡がある。通例(肉まんとあんまんの印のように)見分けるために、かしわの葉の表を上に巻いてあれば小豆餡、裏を上に巻いてあればみそ餡というようにしてあるそうだ。■


 かしわ餅(みそ餡)
※和菓子司・浜屋製



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