2013年4月14日日曜日

茶の湯のことば―茶の湯とはただ湯をわかし茶をたててのむばかりなる事と知るべし



■利休道歌[百首]の1つに、
「茶の湯とはただ湯をわかし茶をたててのむばかりなる事と知るべし」
というのがある。一般にこれは、「茶の湯は、湯を沸かし、茶をたて、ただ飲めばいいのです。決して敷居の高い世界ではありませんよ」と解釈され、利休が推進したとされる茶の湯の庶民性を窺わせるものである。もう一歩踏み込んで考察すると、「(確かに)茶の湯は湯を沸かし、茶をたて、飲むということですが、(客の様子やその時や場に応じて)適宜湯を加減したり、分量を調節したりする心遣い[気働き]が肝要なのです」と考えられる。つまり、この点をふまえると、「茶の湯は湯を沸かし、お茶をたて、飲むという、当たり前のようなことであっても、それを当たり前のこととして行うということは決して容易いことではありませんよ。だから、しっかりと精進しなさいよ」ともとれる。裏千家第14代家元の書"The Enjoyment of Tea"において、Gretchen Mittwer氏がこの教えを
"Know that chanoyu is a matter of simply boiling water, making the tea, and drinking it."
と訳されているが、上述の後半部が十分反映されていないように感じる。例えば、
"Learning [Knowing] that chanoyu is a matter of simply boiling water, making the tea, and drinking it is easier said than done."
または、
"Learning [Knowing] that chanoyu is a matter of simply boiling water, making the tea, and drinking it means doing what have [has] to be done [doing what is expected as expected], showing care to the guest(s), reading atmosphere, and providing the tea based on that[them]."
のようにすると、意味にもう少し奥ゆきが醸成されるのではなかろうか。今後も言語文化論的見地からの考察が必要だ。■


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