2010年1月27日水曜日

bluffing

最近の朝のニュースでは、必ずと言っていいほどさまざまな政治家が画面に登場し、自論なのか、原稿を読んでいるだけなのかは分からないが、もっともらしい発言をしている姿を見かける。

新政権は、かつての野党であったころの勢いは弱まり、受け身にまわっているように映る。あれほどまでに旧政権に立ち向かっていたころの凛とした政治姿勢は影をうすめている。

もし、いまの弱腰な対策が続くようであれば、かつての(マニフェストを掲げた)演説などは、「虚勢」を張っていたとしか言いようがなくなる。

一般に英語で「虚勢」とはbluffという。オランダ語の「自慢する、誇りに思う、(ほらをふく)」あたりから発展してきた語のようだ。また、ポーカーで、弱いカードでも、強いカードがそろっているようにふるまうこともbluffという(poker-faceはしばしば無表情であることを指す)。さらに、特にイギリス英語のようだが、形容詞のbluffには「(必ずしもネガティブではなく)ぶっきらぼうな、率直な」という意味もある。ただ、通例は「はったりをかます、(実力もないのに)えらそうにする」のニュアンスが強いようだ。

身近にもalways bluffingな人を見かけるが、おそらく自分のこれまでの、そして現在に自信がないのであろう。ただ、安っぽいprideだけはあるようだ。それが、bluffingな姿勢にでてしまうのであろう。

教育研究の世界にいると、常に業績をもとめられ、それが自己の社会的評価にもつながる。 つまり、業績を積むこと、教育研究に精進すること、それがこの道を選んだものの社会的責任というものではなかろうか。

当然のことながら、数々の業績をお持ちの学者と呼ばれる方々は、人物的にもすばらしい。やはり、業績を積んでこられた実績が“真の自信”となり、その人の発言の重みや、信頼性、人間性を高めてくれているに違いない。逆にいえば、業績のない人は、自信ではなく、思い込みが醸成され、発言の軽薄さを補うためにbluffingな態度に依存せざるをえなくなるのだ。

上記のalways bluffingな人も、業績はいっこうにあがらないが、年齢だけは自然と上がっていく、そうした自分にどこかもどかしい思いをしているのであろう。そして、そのもどかしさからの解放のために、“率先して”~長と付けてもらえるような、組織構造の中でのより“高い”ところに行きたがるのだ。先の学者と呼ばれる方々は、“率先して”~長のような役職にはつこうとしない。なぜなら、煩雑な会議などに忙殺され、研究時間が割かれるからである。

おそらく、周囲に対するbluffingな姿勢は、決して望ましいことではないが、その人の心の(負の)カタチなのかもしれない。

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