2013年2月22日金曜日

日英言語文化小論(9)【所望】


■「所望(しょもう)」とは、「願いごと、願い出ること」といった意味である。身近な生活の場面で、この表現を耳にすることは珍しくなってしまったが、茶の湯の世界でしばしば用いられる。特に客[茶をいただく側]が、亭主[点前をし、茶を差し出す側]に希望を伝える場合に使うことがある。例えば、少しくだけた雰囲気の薄茶点前であれば、茶をいただいた後に「白湯」をいただきたい場合、「白湯」を「所望」することができる。過日取り上げた「お煮えがよろしいようですので、お白湯でもいかがでしょうか・・」と亭主側から申し出ることもあれば、客側から申し出る、すなわち「所望」することもある。実際、亭主と客との対話の中で、亭主が「釜の湯は・・の水より」などと触れた際には、せっかくのお心遣いを「察し」て、「白湯」を「所望」するのも、茶の湯の世界における「(気)働き」の1つと言えよう。
 なお、「所望」は現代日本語では、堅い表現に相当するが、英語では、requestや単に"I would like to have ~"あたりでよいであろう。"I would like to ask you for ~"でも可能だ。■


2013年2月17日日曜日

日英言語文化小論(8)【侘び】(一)




茶の湯のことば―お煮えがよろしいようで・・


■茶の湯の世界は、しばしば「侘び」と形容されることがある。「侘び」とは千利休により大成された、茶の湯の世界における簡素な様を指す。装飾が極力避けられた四畳半[小間]の茶室では、簡素であるがゆえに、茶の香り、(柄杓から落ちる)水の音、釜から上がる湯気、茶道具の1つ1つ、亭主と客の言葉のやりとり、心遣い、気働き、あらゆることが、いわば、装飾となって、その時、その場だけの茶席を醸成している。まさに「一期一会」にふさわしい時間と空間を形成することになる。だからこそ、(由緒ある)茶道具との出会いは貴重ではあるが、亭主と客との間で生み出される“ことば”も重要であり、茶の湯の大切な構成要素と言える。この意味において、茶の湯[茶道](の稽古)は、点前所作や礼儀作法の学びの場であるとともに、“ことば”を磨く機会の場でもあるのだ。くだけた言い方をすれば、(対人)コミュニケーション力を鍛える場とも捉えられる。
  茶の湯では、当然を(抹)茶を飲むことが主になるが、比較的気軽な薄茶点前では、茶を差し上げた後、茶碗が亭主に返り、客から「どうぞおしまいを」と声がかかると、亭主の心配りにより、白湯を差し上げることがある。実際、鉄の釜で沸く湯は溶けだした鉄分により金属ミネラルが豊富である。炭で沸かした湯であれば、やわらかさが出て、なお良い。
 そして、白湯を差し上げる際に、単に「お白湯でもいかがでしょうか」と声をかけるだけでも、それはそれで構わないが、ひと言加えて、「お煮えがよろしいようですので、お白湯でもいかがでしょうか」とすると、印象が違うであろう。思わず“ぜひ”という気持ちになる。白湯と聞くと、人によっては、温かい水(時に湯冷まし)程度にしか思い浮かばないこともあるであろう。それが、「煮えが良い」という釜の中の湯の様子を伝えることで、客の創造をかきたて、湯に対する“食指”を動かすのであろう。確かに、侘びた、寂びた茶室で炭のはじけるような音や天井にむかって吹き上がる湯気を目の前にし、「煮えが良い」と勧められる白湯を断る理由など見つかるはずもない。
 茶の湯の世界では、先の炭の音、吹き上がる湯気、釜に水を一杓さす際の音なども「ごちそう」とすることがある。同様に、「ことば」もごちそうだ。

・・・「ことば」と、心配り、思いやり、礼節、作法、その他日本的価値観の総体、すなわち「(日本)文化」によって満たされた時間と空間が織りなす茶の湯の<セカイ>は、言語と文化を研究対象とする筆者が出会うべくして出会うこととなった『道』なのかもしれない。まことに有り難いことだ。■


2013年2月16日土曜日

日英言語文化小論(7)【廉恥の心】



 

 拙ブログでは、これまで<ウチなる心>の外化としての言語について触れてきている。そして、そうした言語の運用はそれを用いる人の経験や取り巻く環境に依存しているという点も取り上げている。つまり、大括りではあるが、言語運用は<ウチなる心>の外化であり、(人が感じた)<ソトの世界>の切り出しであり、それらが秩序付けられながら結び付いている関係性が言語文化ということになる。筆者は、混とんとした自然界との接触[経験]から、人が感じた[意識した]森羅万象を言語によって表現し、それらを不特性複数[多数]で言語情報として共有することで、文化が成立し、社会化が起こると考える。サピア・ウォーフ仮説[言語相対論(仮説)]では、「言語が文化を規定[規制]する」といった見解がある。確かにその通りである。さらに、(特定)文化の成熟化が進み、複雑多岐な社会構造を呈するようになった今日では、(相互作用として)文化が言語運用を規定[規制]することもある。俗にいう言葉の適材適所であり、言葉のTPOということである。目上の方に対する表現、友人への言葉、学生への指導上のコメント、結婚式でのお祝いのメッセージ、弔辞の内容、等々はかなりの部分が文化によって規定[規制]されていると言ってよいであろう。
しかしながら、複雑な現代社会においては、その構成員となる人々も多様化が進んでいる。それゆえ、(言語)文化による規定[規制]も、その落としどころが、最大公約数的にならざるを得ないということになる。特定の(複雑な)社会において細分化された異なる小文化に属する者同士が言語接触の際に発生する語感の違いなどが一例だ。具体的には、中高年層が受ける若者言葉の衝撃、(筆者も含めて)一部の客層が感じる飲食店のホール[接客]担当が用いる表現に対する(強い)違和感などである。残念ながら、そうした衝撃や違和感は、(言語)文化の潮流ということで、大半は見過ごされてしまう。一部の言語文化に敏感な方々が防波堤のように防ごうと試みても、そうした負の潮流は大きく激しいのが現状だ。いずれ不適切な(日本語)表現が適切になる時代[とき]が来るであろう。
さらに悲しいことに、言語文化に敏感な者による不適切な(日本語)表現の指摘行為が、被指摘者の受け取り方いかんによっては攻撃的や暴力的などと逆指摘する文化が構築されつつあるということだ。そして、そうした文化の発達を助長する語が「ハラスメント[harassment*]」である。これも文化による言語(運用)の規定[規制]と考えられよう。また、「ハラスメント」という語が堂々と自立歩行を進める文化においては、言語と文化の相互作用の結果として、誤用に関する被指摘者への保護措置が優先される社会ではその語がキーワードとなり成熟度を急速に高めている。これでは、不適切な(日本語)表現を正すための指導や教育がおいそれとはできそうにもない。学生や一般の方々であればまだしも、“センセイ”などと呼ばれる人であれば、教育や指導という名のもとに、(見過ごされる)誤用を流布することになる。しかも、それが毎年繰り返されることになる。タチが悪いことだ。誤用に気付き、それを正すことでその人が(近い)将来受けるであろう「恥」を回避する手助けのために、指摘者の方が精神的な負担を抱えるということは本当に虚しいことである。
 筆者は、幸いにも、筆者の拙文を指摘してくださる方に巡り合えることができた。特に(師と仰ぐなどと言うのも憚れるほどのお方ではあるが)真の大学教授であり、学者であり、人格者であり、家庭人であるそのお方に、多くのご教示ご指摘を賜った。有り難い(仏教用語を語源とする「有り難し(有るのは難しいほど大切な[貴重な])とはこういうことを言うのであろう。多忙を極めるそのお方が筆者のような若輩者のためにお時間を割いて下さり、筆者の(実に)拙い文に目を通して下さったのだ。今でも身近に指導を受けられるゼミ学生などが羨ましくてたまらない。他にも、学会における投稿論文の査読委員の先生方にはいつも感謝している。こちらも拙論に丁寧なコメントを付していただいている。さらに、論文や雑文等の編集担当(出版社)や校正(印刷業者)の方々である。そうした方々が筆者の拙い言葉の数々に手を加えてくださることで、それらが世に出た際に筆者が無用な恥を感じたり、批判を受けたりしなくて済んでいるのだ。
 だからこそ、筆者は自らの拙い表現に対するいかなる指摘にも「廉恥」の心で受け止め、それらを省みるように心がけている。「廉」とは、「心清らかな、潔い、無欲な」という意であり、すなわち「廉恥」とは「恥を潔く受け止める」ということになる。(しばしば性的な事象に用いられる「破廉恥(ハレンチ)」とは、「恥を恥と思わないこと」ということだ)
上述したように、現代社会は被指摘者が(筆者は過剰と考える・・)保護され、「ハラスメント」という語が堂々とひとり歩きするような文化性が優位である。これでは、「廉恥の心」は養われないであろう。そして、そうした文化潮流が教育界をも凌駕しようとしている。このような状況では、自己防衛のために、無用且つ煩雑なトラブル回避のために、不適切で、時に破廉恥な(日本語)表現を「見過ごす」しかないであろう。もっとも、「見過ごす」ような行為も「無責任」ということで批判の矛先が向けられることになる。本当に悩ましいことである。
筆者は人である。感情がある。時に心の痛みを覚えることもある。被指摘者の今後を考えた末の指摘行為が無用且つ煩雑なトラブルの火種になる可能性がある限り、不適切で破廉恥な(日本語)表現であっても、指摘行為を控えるのが賢明なのかもしれない。何より、そのようなことに時間を割かれることで、筆者にとってかけがえのない人への(筆者の)笑顔や清らかな心にほんのわずかでも乱れが生じるのは実に○○なことである。


*英語harassmentのフランス語源harass (harasser; harer; harrier)には、「疲れさせる、いらだたせる、急がせる、引っぱる、荒らす」等の意味がある。仮に誤用の指摘行為がharassに相当するのであれば、教育や指導はその一部にharass(ment)を含んでいるであろう。


2013年2月13日水曜日

On Diet ~ その後


■これまでも何度か取り上げているが、現在も(英語文化的な)diet継続中である。規則正し食生活、無用なジャンクフートおよび炭酸・果汁飲料水の排除、そして筋力および有酸素トレーニングである。数値的にも劇的に改善し、ついに体重12キロ減、体脂肪(平均値)9%減、ウエスト12センチ減(体重とほぼ比例しているのは興味深い)を達成した。首回りから肩口にかけて細くなったこともあり、シャツはネクタイを締めても指が数本入ってしまう。パンツ[ズボン]も拳2個分が入るほどであり、さすがにベルトだけは買い換えた。それでも、脇でかなり絞っているため、シルエットはかなり崩れてしまっている。その一方で、男性として嬉しいことに、いわゆるシックスパックとよばれる腹筋を手に入れることができた。もっとも一般的なシルエットとしてであって、本格的に筋力トレーニングをされている20・30代の方とは筋肉のハリは違うであろう。それでも、同年代の方と比較した場合、その差は一目瞭然である。とにかく、無駄な贅肉が減少したことにより、動きが楽になった。質の高い睡眠もとれているのであろう、朝の目ざまがすこぶる良い。体重減とそれにともなう脂肪減により、抵抗力が低下するといった声もあるが、特に目立った風邪等の病気とは(いまのところ)無縁だ。
 病欠による欠勤を回避できるということを考えれば、健康体を得て、維持するということは”プロフェッショナル”として重要な要素の1つと言えるであろう。 もうすぐ今年度も終わり、春の訪れとともに新年度が始まる。身体が資本であるこの職に従事している限り、せっかく手にした健康体を保ち続けたいと思う。■

東風


■これまでも触れてきたように、茶道の世界では、茶道具に銘をあてることがある(道具、特に由緒ある道具には銘が付いているものがある)。この季節の銘の1つとしては、「東風(こち」が挙げられる。「東風」と言えば、「東風(こち)吹かば匂(にほ)ひおこせよ梅の花主(あるじ)なしとて春を忘るな」拾遺和歌集雑春・菅原道真)が思い浮かぶであろう。学研全訳古語辞典によると、「春になって東風が吹いたなら、その風に託して配所の大宰府(だざいふ)へ香りを送ってくれ、梅の花よ。主人のこの私がいないからといって、咲く春を忘れるな。」ということになる。つまり、菅原道真が大宰府に左遷された際に、愛でていた梅の木にむかって別れを告げた歌である。
 それでは、なぜ「東風」を「こち」と読むのであろう。この語をとりあげているサイトがいくつかあり、語源には諸説あるそうだ。そこで、筆者なりに考えた結果、2月に吹く東からの風は、春の訪れを気づかせる比較的やわらかい風であることが多いところから、「小[こ」さい風」を意味する「こち」となった、のではなかろうか。しかしながら、この考えを積極的に主張できない点として、瀬戸内海(現在の豊後水道含む)周辺の漁師が用いた風に関する表現に由来するというものがある。例えば、
「・・・東風を「こち」と呼ぶその語源は瀬戸内海の漁師言葉だとする説があります。瀬戸内には、「鰆(さわら)ごち」「雲雀(へばる)ごち」「梅ごち」「桜  ごち」「こち時化(しけ)」といった「コチ」を含む言葉があるそうです。・・」(http://koyomi.vis.ne.jp/doc/mlko/200803170.htm)がある。つまり、漁の生活の中では、東から吹く風は必ずしもやわらかいわけではなく、むしろ荒れている海を連想させることになる。歌にでてくるようなやさしい雰囲気はない。
 もっとも、歌の世界の方が漁よりも一般的に馴染む、という立場をとれば、先の「小[こ]さい風」を意味する「こち」を支持できるであろう。言葉は本当に興味深い。■


 

幸せの道のり


■キャンパス内を歩いていると、ひとりの学生がカメラ片手に、何かを探しているようだった。その後、立ち止まり、シャッターを押す音がかすかに聞こえた。被写体が何であったかは定かではなかったが、彼は何かを感じ、それをフレームに収めようと思ったのであろう。そのフレームの中には、彼がその時感じた<セカイ>があったはずである。そして、それは画像として(デジタルであれば)ほぼ半永久的にこの世に残ることになる。それは彼のその時を生きた証しとなり、これから彼の大切な人となる方にとっての標[しるべ]となることであろう。これからも、彼にとって未来の大切な人のためにも、素敵な<セカイ>をフレームに収め続けてほしいと思う。
 筆者は、写真ではなく、言葉を紡ぐことで、自ら感じる<セカイ>を表現している。形態こそ違うが、その時感じた<セカイ>の内なる心の外化という点においては、画像も言葉も同様な意味を持つであろう。残念ながら、筆者は画像を評価するほどの才能は有してはいないが、分かる人が見れば、画像の持つ繊細なメッセージや、(対象<セカイ>の)粗い切り出し感、といったことがその画像には含まれているのであろう。同様に、言葉でも<セカイ>をいかようにも切り出し、表現することが可能だ。優しい言葉、厳しい表現、やわらかい語、温かい心のこもった文などである。これらは<セカイ>の切り出し方によるものであり、言葉はその時感じた<セカイ>の内なる心の外化という点から、それを用いた人の心の在り様と言える。
 しかしながら、言葉が内なる心の外化としてすべての人の心の在り様を投影するというわけではない。そこには、その人のこれまでの経験、そしてその経験の中で培われた思想、信念、価値観、すなわち、それらの総体としての(言語運用者としての)言葉の文化性というものがあるはずだ。例えば、英語文化圏の方であれば、キリスト教的精神に影響された心の在り様があり、日本人であれば、神道、仏教、和の精神等に代表される日本的世界[文化]観というものに影響されているであろう。さらに、日本語の場合には、言葉にあえて依存しないことで、すなわち沈黙によって<セカイ>を表現することがある。また、先の学生のこれまでの時間と筆者のこれまでのそれとでは、長さも密度も違うであろう。ゆえに、心の在り様も異なって当然である。
 筆者にもかけがえのない人がいる。先に触れたように、言葉に依存ぜずに<セカイ>を表現し、伝えることがある。ただそばにいるだけで幸せを感じる、といったことである。それでも、そのかけがえのない人がいつか筆者の感じた<セカイ>を辿りたいと思った時に、そのかけがえのない人が迷わないよう、標[しるべ]としての言葉を書きとめておきたいと思う。そして、そうした言葉を紡いでいく中で筆者の感じた<セカイ>(に近似した<セカイ>)を再現し、筆者の内なる心に触れてほしい。それが同じ<セカイ>を生きた証しとなり、幸せの道のりとなるのだから・・■

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