2011年9月12日月曜日

合掌

ちょうど100日前、私はかけがえのない“人”との(現世における物理的な)お別れをした。
本ブログもその1週間前にアップロードしたままであった。
その時は、現実の時間と空間をまったく認識することができず、その“人”ともう直接会話をしたり、食事をしたり、笑ったりすることができないということがピンとこなかった。公的機関等への事務的な手続きや連絡をし、葬儀を執り行う中で、少しずつその“人”が視覚的、物理的には存在しないという現実を感じるようになってきた。

大切な人とのお別れを経験したことのある方であれば理解できるであろうが、大切な方を愛している人以外の時間や空間は、これまで自分が過ごしてきたそれらと何ら変化はないのである。
・・・そして、見上げれば、空さえもいつものように日中は光と(熱)エネルギーを、夜には暗闇と静寂を、与えてくれた。(葬儀当日は雨であった。その“人”とのお別れを悲しんでくれたのかもしれない)
私にとって、お別れの日からは、劇的な時間と空間の変化がおきている。その変化に対応することは本当に辛く厳しいものである。実際にその変化によって引き起こされるエネルギーに耐えきれず、精神的解放[開放]を求め、物理的自己消滅を選択する方もいるくらいだ。正直その方の気持ちは理解できる。人それぞれその程度はさまざまであろうが、大切な人を失うということは、ものすごいエネルギーが発生するのだ。

その“人”は、存命中、私のすべてを支えてくれた。とりわけ教育面に関してはとても理解が深かった。私が今の世界に飛び込んでからは、研究にも大きな関心をよせてくれた。今どのような研究テーマに取り組んでいるのか、今度の研究発表はいつどこでなのか、論文は書いているのか、等々である。
だからこそ、ほんの小さなものでさえ、私の原稿と名前が活字になった書物類はその“人”に必ず見せにいった。そして、その“人”は目を細めて喜んでくれた。
・・・そして、最後には必ず食事はしっかりとっているのかを聞いてきた。優しい心遣いの一端である。

その“人”は、もう視覚的に見えたり、物理的に触れたりすることはできない(と思う)。(もっとも精神的に感じとることは可能であろう、と考えてはいる)それでも、こうした存命中の私への思いや期待にこれからも答えて[応えて]いくことがその“人”への何よりの供養であろうと強く思う。その意味でも、今まで以上に教育研究に力を注いでいきたいと思う。月並みで、平凡な表現ではあるが、必ずやその姿を見守っていてくれるに違いないと思う。

平成23年9月11日(日)は、仏教上その“人”の百か日であった。卒哭忌(そっこくき)と呼ばれ、(一応)この日で故人を亡くした悲しみを哭(な)いて過ごす日々を卒(お)える、という意味がある。現実的に100日で悲しみが癒えることは(人それぞれではあるが)ないであろう。ふと嵐のように悲しみが襲ってくることがまだまだある。1年、2年、いや、何年続くかわからない。自分が現世を離れるその時までかもしれない。それでも、故人は残された人が自分のことを思っていつまでも悲しんでいる姿を見ることを望まないであろうという(文化的)解釈なのであろう。私もその“人”への思いを心の中にしっかりと抱きながら、いまある時間と空間をしっかりと感じていきたいと思う。その“人”もそれを望んでいることであろう。

なお、同日はちょどアメリカ同時多発テロ事件から10年目、東日本大震災から半年であった。これも何かの因果があるのかもしれない・・・。

まだその“人”への思いは書き足りないが、いったんここで筆をおいて、現実の世界を感じようと思う。

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